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真夏の信州上田一人歩き①

前書き

2020年8月某日、私はGotoトラベルキャンペーン開始以前にひっそりと出かけていました。政治家だったらすぐさまスキャンダル扱いされてるに違いない。それでも出かけた。戦国時代なら切腹かもしれない。アルコール消毒液と手拭きシート、自前のゴミ袋、使い捨てマスク、などなどとリュックに詰めて、しかし大好きな飛行機は流石に諦めて、新幹線で行ける場所を探しました。
場所は信州・上田。真田信繁(幸村のほうが有名だろうか)で有名な土地です。

上田駅、着陣

駅に着いたらまず目に入るのがこちら。想像してたよりも真田全開! やっぱり大河ドラマの影響が大きかったのかな。

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ドラマ化された時にとても盛り上がったと聞いていたので、こんなご時世じゃなければ今もすごかったんだろうなあと思います。到着した時に私以外全然観光客みたいな人はいなかったので……。(そりゃそうだな)

初めての上田駅! 東京から北陸新幹線「あさま」に乗り込み、揺られること約一時間半。長野県はむか~し、家族旅行でよくスキーに行っていたのですが個人で訪れるのは初めて。普段は飛行機での旅が多いので新幹線そのものが新鮮な気持ちでした。てか、北陸新幹線って別の路線を行けば仙台までもすぐなんですね。

今回の記事のヘッダーにも置いていますが、駅の外観も真田氏全開。すごい。地元に有名武将がいるというのはこんなに”パワー”があるのか……。

2020-08-08_6_ウォーキングマップ1

駅前にあったマップ。「真田十勇士」は池波正太郎先生による創作で有名ですが、もともとは江戸時代に作られた講談上のキャラクターたちです。「真田幸村」という名前も実は史実ではなく、創作で生まれたものですね。現在残されている一次資料上に「幸村」という名はなく、本名は「真田信繁」と言います。余談ですが、戦国炒飯TVを見るとそのあたりがおもしろおかしく分かりますw

2020-08-08_8_駅前

駅前に立ってまず目についたのはこの水車! 調べたところ、この水車は「下掛水車」という形式のもので、1998年(平成10)、新幹線上田駅前の再開発事業の一環として、豊富な自然エネルギー活用のモニュメントとして設置されたそうです。

秋和・塩尻の生命線 桝網用水
桝網用水は、坂城まで続く千曲川(ちくまがわ)右岸で最大の用水です。取水口は、江戸時代中頃には上田城崖下の尼ヶ淵に入る千曲川の分流から取り入れていたようですが、その後上流に移されました。明治時代には上田駅東方に用水を利用した養鯉池(ようりいけ)、製糸工場などができ、下流の秋和・塩尻地区では、長い間農業や生活用水として利用されてきました。
(上田まち物語 シリーズ2 より)

2020-08-08_10_駅前

千曲川(ちくまがわ)
上田市を東西に流れる清流・千曲川は、新潟県および長野県を流れる一級河川です。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県域では千曲川と呼びますが、新潟県域では信濃川と呼ばれ、信濃川がこの水系の本流とされています。全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長いのですが、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっています。
古くは万葉集の「信濃なる千曲の川のさざれしも 君し踏みてば 玉とひろはむ」など、歌によく詠まれました。近代になっても島崎藤村(「千曲川旅情の歌」「小諸なる古城のほとり」など)・高野辰之(「朧月夜」「故郷」など)らが歌にし、現代では演歌歌手・五木ひろし氏が「千曲川」を歌うなど、この川とその流域の郷愁を誘う風景は人気があります。
(上田市ホームページより)

そして水車の次に目に入ったのは下の幸村騎馬像です。

2020-08-08_11_駅前真田像

この銅像は1983年(昭和58年)に上田城築城400年を記念して、上田市出身の成沢定平氏より寄贈されたものとのこと。幸村初陣の騎馬像だそうで(でも初陣がいつだったかとか信繁ははっきりしてなかった気もするんですが、見た感じ10代くらい??)彫刻家の田村興造氏によって制作されました。高さは約2.7m。

ところで真田家研究の歴史学者、平山優さんの著書に『真田信繁~幸村と呼ばれた男の真実~』という本があり、こちらの中で信繁の初陣を「第一次上田合戦ではないか」と推定を立てていらっしゃいました。(1585年頃。信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称。)

駅前だけでもかなり多くの案内板があります。つくづく江戸時代からの人気を感じる……(笑)ところで幸村騎馬像の後ろにある時計と温度計。朝の八時半過ぎにも関わらずすでに28℃……8月上旬だったんですが、めちゃくちゃ暑かったんですよ……。風がほとんどなくて、それでもじっとりするようなものではなく、少し曇っていたのが救いでした。山がある関係なんですかね?

2020-08-08_12_駅前真田の歴史

御屋形堀と石垣跡

駅からしばらく歩くと、上田高校という場所にたどり着きます。

上田城三の丸内にある現・上田高校の敷地は、真田氏以降、仙石氏、松平氏と続いた上田藩主の居館跡であり、「御屋形」と呼ばれていた。四囲に堀と土塁をめぐらした陣屋の構えを取っていた。堀を含めた敷地の広さは、東西が七十四間三尺(135.5m)、南北が七十四間二尺であった。
屋敷の基本的な構成は、当初から大きな変化はなかったものと見られるが、松平氏時代の様子のあらましは次のようだった。
館は入口側から、御表・勝手・御奥の三つの殿舎群に分けられていた。御表は、藩主の公的な生活の場で、大書院・大広間等があった。勝手は、藩主の居間で小書院・表居間など、また、御奥には藩主の寝室・側室の部屋などがあった。(上田藩主居館跡 案内板より)

2020-08-08_15_御屋形古図

現在高校となっているこの場所、江戸時代は藩主の屋敷が置かれていた場所だそうで、そこを囲む堀の跡は今でも残されています。ここは歴史的な経緯から実質上、上田城本丸として機能した真田氏・仙石氏・松平氏が藩政をおこなった政治の舞台だったのです。当時を偲ぶような塀もまた味がありますね。
学校の南側には細いながら濠があったことがわかっており、藩邸と宿場町間にあった三の丸大水濠(外濠)は蛭沢川旧河道(湿地帯)を利用して堀削されたそうです。ここは上田宿商人と武家屋敷が連なる場所の境界となり、大手門(現商工会議所)の枡形、桂旅館前、刀屋前枡形が武家ゾーン入口番所でした。

2020-08-08_16_御屋形堀

そしてこの趣深い門。

2020-08-08_18_門の跡(現在高校)

上田高校「古城の門」は江戸期上田城三の丸藩主居館の表御門でした。「古城の門」は1789年消失後、翌年再建されたもの。現在も正門として使用されているそうです。朝7時には大扉が開門され、高校生たちを迎えているのだとか。
藩邸時代には、通常左右の潜戸(くぐりど)のみが使用され、大扉は城主のみ通行できたようです。現在は全く逆で、潜戸は何年も開門されていなかったのだとか……。藩邸図面によると潜戸を入ったすぐ右手には通行人をチェックする番所があったそうです。

上田高校の公式ホームページを拝見したところ、敷地内には様々な遺構が確認できるようで大変羨ましい! 高校生たちの部活ユニフォームにも真田氏といえば、で有名な「六文銭」が描かれており、なんだかもうすごいとしか言いようがない(笑)

2020-08-08_19_門の看板1

学校のすぐ近くの地面を見てみると、上田市のマンホールが。旅行に行くと、ついつい目についちゃうんですよね、マンホール。地域によって特色が出ているというか、面白くって。上田市は六文銭と、ハイビスカス? と思って調べてみたら、『旧上田市のシンボルマークである「六花文」と中心市街地のマンホールの画像「ツツジ」をあしらったデザイン』だそうですw 全然違った(笑)立花文、ってなんだろう? 検索してみても市にある花壇みたいなものが出てきたんですが……それのことを指しているのかしら。ご存知の方がいたら教えてほしいです。

2020-08-08_17_マンホール

スマホで過去の町並みを体験

2020-08-08_21_上田城下町絵図

高校の門を過ぎてすぐのところにあった町の案内板。御屋形周辺の古地図のようでしたが、なんとこれ、スマートフォンで地図アプリを起動して使うソフトみたいなんですね。ちょっとどう説明していいかわからない(笑)その名も『元禄絵図マッピング』。

2020-08-08_21_上田城下町絵図VR0

元禄絵図マッピングとは、Google社のGoogleMap技術を用い、元禄15年上田城城下町絵図画像と現代地図を重ね合わせ、閲覧できるようにいたしました。絵図は手書きであり、方位や建物など縮尺が現在の地図と完全に一致はいたしません。したがって、絵図に記載されている要所と現在の地図がおおまかにあうように、絵図の回転や変形を加えております。
このマッピングを通じて、絵図当時の雰囲気を現代地図で感じていただけたらと思っております。
(上田城 城下町絵図アーカイブ ホームページより)

2020-08-08_22_上田城下町絵図VR1

要するに、スマホでグーグルマップのアプリを起動させて、そこに上田市のマッピングを重ね合わせると、元禄時代の町並みにグーグルアースできるってことですね! 何言ってるかよくわからない。上がアプリを反映させる前の現在(令和)の上田の町並み。そしてこれにアプリを反映させると……

2020-08-08_23_上田城下町絵図VR2

これをこうしてこうじゃ!
はい、現在は上田高校となっている場所が、御屋敷であったことがわかります。これめちゃくちゃ感動しました。地図アプリなので、歩くとこの古地図の中を自分(青い丸)が動くんですよ!川や堀は埋め立てられていることがわかりますが、それでも大きな主要道路などはそのままなのだということが分かります。いやこれめちゃくちゃ面白い。歩きスマホ駄目なのにずっと地図見ながら歩きたくなってしまう。ワンタッチで現在の地図との切り替えもすぐ出来るし、見比べるのもまったく飽きません!これ全国でやってほしいな~というレベルに楽しいアプリでした。

2020-08-08_24_道標

地図アプリを楽しみながら歩いて目指すは上田城址方面。至るところに、こういった道しるべが置かれています。すげ~観光地!(笑)

2020-08-08_25_町看板

案内板の他には真田氏、そして真田十勇士たちを紹介するパネルもありました。まさかここまで全力真田氏を推してくるとは……色も赤いし強いパワーを感じる……力とはパワー……。一人でひっそり訪れているので、声に出さず静かにスマホのカメラシャッターを切る女が一人。朝の9時くらいに。怪しい。

2020-08-08_26_町看板

2020-08-08_28_町看板

上田城址周辺へ

そしてやってきました上田城址! こちらは国の指定史跡となっており、天正11年(1583)真田昌幸(信繁のお父さんですね)によって築かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置しています。堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った堅牢な城です。第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。

2020-08-08_32_史蹟 上田城址

かつて本丸には櫓門2基、隅櫓7基がありましたが、現在は隅櫓3基と櫓門1基をみることができます。また、城内には石垣や土塁が至る所に残されています。

2020-08-08_33_史蹟看板

ちょっと長くなってきたので一旦記事を区切って、次回は上田城址から。

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黒田きのと
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