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各巻の中身を把握『綿考輯録 第二巻 忠興公(上)』覚書き

 蔵書マガジンの中にも入れた『綿考輯録 第二巻 忠興公(上)』、今日はこちらに収録された「巻九~巻十八」についての内容を覚書きとして残しておきます。自分が資料探しする時に役立つからなんですけど……。
 個人的に特筆しておきたいこと部分を各巻に続けて書き足していきます。

・<>内の年代については巻の最初と最後から判断
・Pページ数の後ろにある()内年号については、調べて付け加えたもの
・「」内は短い引用、比較的長い引用についてはnote機能の引用を使用
・漢字のフリガナは読めないので個人的に付け加えたもの


巻九

<永禄六年~天正十二年頃まで>
・忠興の生い立ちについて
・乳母夫婦について
・忠興の養子問題、幕府における藤孝のポジション、役割
・天正五年頃の記載が多い。特に信長の小姓となってからの出来事など
・本能寺の変後、一色氏を討ち滅ぼすまでの経緯、以後領内の居城や領地について
・小田原攻めについての流れ、家中の状況など


巻十

<天正十三年~天正二十年(十一月)頃まで>


巻十一

<文禄元年(*天正二十年十二月八日改元)~慶長四年二月頃まで>


巻十二

<慶長四年三月二十六日~慶長五年五月頃まで>


巻十三

<慶長五年六月~慶長五年八月三日頃まで>
・主に「玉造の御屋敷」における、お玉(ガラシャ)のこと。また、同所における「御自害」について、家臣たちの動きなど。
文中には「上様」/「忠興妻」/「秀林院様」の表記あり。

御前様御名お玉様、後ニ伽羅奢様と云、御母ハ妻木勘解由左衛門範凞女也

参考:14ページ上段


巻十四

<慶長五年八月四日~>
・関ケ原合戦の前哨戦の様子
・岐阜攻めに加わった細川家の動き、戦功等


巻十五

・木付における細川家家老の動きについて(関ケ原合戦直前)
・九州における細川家の動き


巻十六

<慶長五年八月二十五日~>
・関ケ原本戦の動き
・戦功一覧、忠興の「合戦御武具之覚」


巻十七

<慶長五年九月十六日~慶長七年まで>
・関ケ原合戦の軍功について
・豊前入国および中津城入城時の規式
・新しい国への移動、領内における各城代について
・「仲津(中津)御領分検地之儀」
・「黒田家と御不通の事」
・細川興元(玄蕃)の出奔について
・「小倉城御普請」


巻十八

<慶長八年~慶長十九年十月頃まで>
P428 慶長八年七月「小倉御出船、同廿一日大坂江御着船」

「廿八日秀忠公の姫君 干時七歳 秀頼公に 十一歳 御輿入、依之伏見より大坂迄川舟を飾て御送被成候、」……

P428 下段

 この時の「御国本江下候御書」に書かれた宛名には、「松井佐渡守殿」、「有吉武蔵殿」、「加納曲斎」、「加賀山隼人正殿」とあり。
 →ここにある「有吉武蔵殿」について、もう長岡のはずだけどなんで有吉って書いてあるのかな~ナゾ……って付け加えてあるんだけど(多分著者の所感として)、忠興様が呼びやすかったのが有吉武蔵なのでは……などと感じた。なんでかね~

P429 「一 今年日下部くさかべ主水もんど 初の名与助 帰参被仰付、」……

主水家伝曰、清久次男日下部与介元五ハ細川玄蕃興元之家人なり、然るに興元之勘気を蒙り候故、清久も御暇賜り丹後を罷出、志水九左衛門日下部与介を加藤清正ニ預け、自分ハ法体して京都に住す、与介ハ清正に仕へて弐百石を領し、鉄砲頭を勤、朝鮮にて数度高名あり、有吉武蔵よく見候而其段被申上候、慶長五年豊後木付の城を大友せむる時、黒田如水より清正ニ申越るゝは、松井・有吉わずかの勢にて籠城及難儀候、後詰可有由ニ而、清正内鉄砲頭日下部主水・坂川忠兵衛両人に百挺添て遣されしに、大友和睦下城せられしかは帰せしむる所に、……

P429 下段~P430 上段

P433(慶長九年)「一 三月、与五郎興秋主を証人として江戸江被遣、忠利君の代りと被成候処、途より御出奔ニ付、長岡平左衛門重政を以証人と被成候 後従五位下に叙し、右馬介と号」

P436(慶長十一年)「一 七月廿七日 一ニ十七日と有ハ誤也、」

飯河豊前 時ニ三千石、一ニ五千石、丹後ニてハ千三石と有 ・其子長岡肥後 時ニ六千石 を御誅伐被成候、自是先飯河父子罪科有之由ニ而閉門被仰付、即晩逸見次左衛門を両御所様に御使者被遣候 子細不分明、

P436 下段

・上からの続きで、P438「勇士一言集の内ニ、細川三斎殿の一族ニ長岡肥後と云者有、豊前厳石城を預られけるか、あしき事のミありし故謀て討んと思はれけるを、」……

P443(慶長十二年)「一 六月下旬 一ニ七月共あり又十月と有ハ誤也 、」

飛鳥井殿豊前江御下向、忠興君御喜悦不斜四本松の御披として、七月七日小倉の御本丸ニ於て枝の鞠御興行、終て和歌の御会 幽斎君之譜ニ詳出 、暮に及ひ御拍手と被定、此砌このみぎり長岡式部興長等各蹴鞠を好、雅庸卿の門弟と成、是を学ひ、装束を免許せらる、

P443 上段

 蹴鞠して和歌やって夜になって……て完全に貴族の遊び方なんだけど、よっぽど飛鳥井殿が小倉まで来てくれたことが嬉しかったのか、忠興様。松井興長が一緒に蹴鞠教えてもらった! の記述も発見できて嬉しい。

P443(慶長十二年)「一 十一月朔日、兵部卿妙庵幸隆主 はじめ愛宕下坊福寿院之住職 豊前竜王城ニて御卒去、三十七歳……」
 幸隆は忠興の同母弟で、幽斎の三男。はじめは京都、愛宕山の福寿院に入れられ僧となったが、天正11年(1583年)に父の命で還俗して細川家に戻った人。関ケ原の時に田辺城に籠城して父を支えたのもこの人。

P443(慶長十二年)「一 十二月十四日、武蔵守立行備後国ニて病死、」……

はしめ病気差発候節於京都療治仕度旨願候而上京、盛芳院之薬ニて快気いたし帰国ニ赴き候処、備後国鞆と白石の間船中ニて又々差重り候故、忠興君へ之遺書を調ととのえ、嫡子四郎右衛門看病之為附添候ニ渡し、死後差上よと申含、白石ニ船を着ケ猶又療治を加へ候得共不叶候、遺骸を菩提所万歳山天聖寺ニ葬り、法名ハ峯雲院松岩宗貞と号す 立行妻緑樹院と云、無程尼と成、慶長十六年五月十七日於小倉死、

P443 下段

 次のページにかけて有吉立行の功績が続ている。若年から幽斎のそばで仕え、十七~八歳の時は幼少忠興を肩車して川を渡ったよというエピソードもここに記されている。ところでこの川渡って無事生還した立行に対して「忠興君御稚心ニたたものにあらすと思召候ひしか、」とあって可愛い。こいつ……できる……みたいなのを幼心に思ったってことでしょ、かわいい~~

P444(慶長十二年)「一 今年、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、干時二十二歳、」
 興季、または長岡是季あきすえは通称を米田監物と言い、父は米田是政。ややこしいな。言うまでもなく「長岡」は細川家から与えられた名前で一門衆となる。幽斎の頃から祖父である求政が仕えていたが、元々は辿ると幕臣だった。
 祖父、父と続いて細川家の重臣だったのだが、興季の代になり忠興と衝突してしまう。どうも、慶長十一年の飯河父子誅伐事件を不満に思ってたようで、講義したら忠興の怒りを買ってしまったようだ。あちゃー。なんで講義したかというと、飯河に妹が嫁いでいたようだ。親戚だったんだね。しかし二十二歳で家老職にあって主君と喧嘩して出奔、なかなかロックだ。
 その後、浪人になるも、先んじて出奔していた細川興秋と共に大坂城へ入る。大坂城が落城すると落ちのびて、近江(坂本西教寺)で蟄居していたようだが忠利の時代になって帰参が許され、細川家に戻っている。その後の子孫も熊本藩家老職として続いたようだ。興季も仕事ができた人らしく、肥後熊本細川藩の三本指に数えられる家系である。ちなみに「よねだ」ではなく「こめだ」。

P449「一 慶長十五年 庚戌、尾州名古屋城 家康公之御八男大納言義直公ニ尾張国を被遣候故也 御普請ニ付、」……
 名古屋へ詰めた際、家中における役人の一覧がある。「尾州御普請之者道中組之次第」
 一番に「中嶋左近組共 松井佐渡守者」、二番が「岡村半右衛門組共 村上八郎右衛門者」、三番に「加々山源左衛門 加々山隼人者」とあり、続けて「覚」、名古屋に到着するまでの流れが続いている。ここにある「村上八郎右衛門」は村上景広のことだろうか? 書いた人として連署されているのは「松井佐渡守」、「沢村大学介」、「加々山隼人介」。この三人が責任者というわけだろう。

P454(慶長十五年)「一 八月、幽斎君於京都御大病之告有之候間、」……

昼夜御急キ御上、廿ニ日御入洛被成候へとも、幽斎君ハ廿日御逝去ニて御愁傷甚く、御遺書にまかせ荼毘して、御遺骨を南禅寺天授庵と豊前小倉ニ御わかち被成候、九月十三日小倉ニ御下着、十八日御葬送の御規式有 幽斎君之譜詳出、御追善かたのことく御執行被成、将軍家よりも御使を小倉ニ賜り、御弔ひあり、

P454 下段~P455 上段

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