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戦国随一の『チート系』武将・細川幽斎公

 本日は皆んな大好き!
 戦国のハイパーチートマルチスキル持ち武将である細川幽斎(藤孝)様について書いていきたいと思います。

 やはり、中世から近世へ移り変わる時期の、大名細川家の礎となった人物のことは、一度しっかりと書き残しておかねばならないと常々考えていました。
 しかし、この方のことを語ろうと思いますと丸一日でも足りませんし、当然noteの文字量が膨大となり、誰も読みたくない事態となるでしょう。
 故に、今後、多分ですが数回のテーマに分けて、多方面から幽斎様のことを見ていきたいと思います。できれば。


「細川幽斎」とは、どのような人物なのか?

 我々はこの秘密を探るためにアマゾンの奥地へ行かずとも、日本中で足跡をたどることができます。いや、日本中は言い過ぎかも。でも日本の七割くらいはいけると思います。つまり日本中のあらゆる事柄の、およそ七割程度には細川幽斎の名前が見えると言っても過言ではない。たぶん。

 とは言え、どのようなことを書けば「細川幽斎様ってめちゃくちゃすごい人物なんだよ!」ということが伝わるのか。
 これについては少々悩みました。なぜかって、本当に、この方はその気になったら何でもできてしまうのでは? というか、もしかして人生五周くらいしていますか? と聞きたくなるくらい、その身に宿した能力が高すぎるのです。流行のライトノベル風に言うと「チート系武将」でしょうか。まずは細川幽斎という人物を知る最初の入り口として、ご覧いただければ幸いです。

近世大名細川家の礎

 改めて言うと、細川幽斎公は近世大名細川家の礎となった人物です。
 いわゆる戦国時代のただ中に生まれ、江戸初期まで激動の中を生き抜きました。彼の活躍は武将としての文武のみならず、茶の湯、蹴鞠、包丁、和歌、などなどなどなどと、およそ当時の人々の「教養」と呼べるもののほとんどを網羅していました。戦ばかりだった時世でいったいどうやってそんな「教養」を得る時間を捻出していたんだ。永禄年間は24時間じゃなかったっていうのか?
 中でも最も有名なのは歌道――和歌や短歌と言った、我が国が誇る短い言葉による表現方法の道を極めた人として挙げられます。

 本当は割愛しようと思ったのですが、ここで幽斎公の生きた時代背景について少し書き記しておきます。ここがピンと来ていないと、当時、戦国という世において幽斎公がどれほど重用される人物であったか、それが分からないからです。何も、私が幽斎公のことを好きすぎるからと言って、過大表現をしているわけではないのです。当時の人々から、求められていたのです。

三人の天下人に仕える

 幽斎公が生きた時代は戦国時代の末期。生まれ年は織田信長公と同年ですので、なんとなく歴史をご存じの方は時節を想像できることでしょう。
 足利将軍家の幕臣の家に生まれた幽斎(藤孝)公は、自らも第十三代将軍・義輝公に仕えるところからその人生をスタートさせました。やがて、将軍の代替わりを経て、織田信長の配下へと転身します。自身の嫡男・忠興が、盟友である明智光秀の娘・玉子と婚礼をすると、その地位を盤石とし、一時は安泰かに見えていましたが、そこで起きたのが本能寺の変。
 本能寺の変により再び立場を変えることになった幽斎公は、細川家を忠興に任せ、自身は隠居の身となって表舞台から退きます。
 このとき、信長公の喪に服するという意味で出家し、雅号を「幽斎」、法名を「玄旨(げんし)」としたことから、「細川幽斎(玄旨)」と名乗り始めます。この名前の通りがいいし、ものすごく有名なので、だいたいどこでも「細川幽斎」という文字を見ますよね。それまでは名を「藤孝」と言ったので、小説やドラマ、武将隊などではこちらの「藤孝」を使用されていることもあります。

 織田時代の後、豊臣、そして徳川へと時の権力者側につき、時代の動乱を巧みに生き抜いてきました。

 細川家は本能寺の変後から、その舵取りを忠興公(幽斎公の嫡男)へと変わりましたので、前述したとおり幽斎公は表舞台からは退きます。しかし、本当に文字通り「表舞台」だけ。というのも、幽斎公は隠居の身となった後も、時の権力者の側近くにあり、そのスキルの高さ故に非常に重宝されていきました。なんと言っても幕臣を経験されている方ですし、生まれは京の東山、家柄も申し分無く、身内には公家の縁者をはじめとした人々が並び、故に人脈もたいへん広く、権力者たる人々にとっては喉から手が出るほどの人材でしょう。おまけに本人は何をやらせても大抵のこと(当時の教養ほとんど)ができるときた。
 特に豊臣時代においては、本人が隠居の身だったこともあるでしょうが、前述の通り戦や治政といった表の仕事は忠興公が行いました。その間、幽斎公と言えば羽柴(豊臣)秀吉公の御伽衆の一人として、実質的な権力を持たずとも「権力の近くにはいた」のです。御伽衆とは、簡単に言うと高貴な人の周囲にいて持ち前の素養を披露して楽しませたり、お話相手になったりする人々のことだったようです。幽斎公はマルチタスクスキル持ちですからね、毎日違う話だってできたと思いますよ。知らんけど。幽斎公は歌道を極めておられたので、秀吉公とのやりとりの中で、「咄嗟の歌(和歌)を使ってうまく場を収めた」などという逸話には事欠きません。いつかそのあたりもご紹介したいところです。
 また、実を言うと「権力の近くにいた」という意味では、かの千利休様と並ぶほどでありました。九州征伐の後、豊臣へと下った島津龍伯(義久)公に対し、秀吉公は「茶の湯ならば利休に、和歌なら幽斎によく聞くと良い」と勧めた逸話も残っています。龍伯公も風雅のある方だったそうなので、かのお人とも幽斎公は交流があるのです。(またそれも別記事で書きたいですね。)

 大丈夫ですか? ついてこれてますか?
 幽斎様の話をしようと思うと、あっちもこっちも話さなきゃいけなくなって、まったくまとまりません。これを書いているのも三回くらい消しては書き、消しては書きをして、諦めました。
 とりあえず、細川幽斎様がチートらしくて、時の権力者にも重宝されてたらしい、ということは、なんとなくご理解いただけたかと思います。

書籍の中に見る「細川幽斎」像

 ここからは、私が所蔵する書籍の中から幽斎様のお人柄について、どのように表現されているのか、引用の形で記したいと思います。いずれも細川家ないし細川幽斎公について書かれた本であり、著者あるいは編者が、どのような意図、感情を持って幽斎公のことを綴っているか、比較してみます。おそらくですが、幽斎公のお人柄や性質について、見えてくるものがあるのではないかと思います。小説に関しては「登場人物」のフィルターがかかりますので、必ずしも著者の……というわけにもいきませんが、その言葉を選んだ、ということが大事なのです。

【凡例】
①『書籍名』(小見出し)②著者名、編者名等 ③発行年月日

引用文

章題等/ページ数

1.書籍からの引用であるため、現在の常用漢字でないものや文法の異なる箇所も中にはあるが、変換ができるものはなるべく行い、原文ママに記載した。変換ができなかったものに関しては、現在使用されている漢字に直してある。
1.noteは横書きであるため、数字に関してはアラビア数(算用数字)であるべきだが、これは発行年月日とページ数に留め、引用については原文の通りとし、漢数字で記載されているものも同様である。
1.私が所蔵している書籍についてはタイトル部分にリンクをつなぎ、書籍の紹介記事へ飛ぶようにしている。


①『細川幽斎』

②桑田忠親 ③昭和23年3月

(前略)幽斎の史的存在は、自分にとつてもそれ程魅力的なものだつた。武人にして藝道界の大だて者となつた彼。藝術によつて磨き上げた武道を以て戦乱の裡を見事に生き抜いた彼。さればこそ大義名分地に墜ちた世に處して大局を誤らなかつた彼。武人である彼によつて我が國の藝道がいかに正しく傳へられ、明るみに出され、人間生活と密接な関係をもつに至つたか、それによつて武家社会にいかに藝道が普及し、これが正しく理解され、一般武人の生活が向上したか。

緒言/P.3

幽斎七十七年の生涯を眺めるとき、戦國時代當時に生をうけた者の常として、實に多彩な一生を送つたことがわかるのである。彼は、その天與の才能を、色々な方面に伸ばしてゐるから、ただその一面を觀察するだけでは、この文武に秀いで諸藝に長じた人物の全貌を窺ふことはむづかしいのである。
しかし、幽斎の一生涯の輪廓をなすもの、幽斎の外觀を形成するところのものは、武人としてであると思ふ。

第一章 幽斎と武道/一 武人としての生涯/P.3

いはゆる武功にも色々ある。(中略)これらの武功は、一人でその總てを兼ね備へることは仲々むづかしい。(中略)ところが、ここで幽斎の生涯を眺めると、彼の武功は、ただに一方に秀いでてゐるばかりでなく、そのすべてに於いてすぐれた働きをなしてゐたことがわかる。

第一章 幽斎と武道/二 武藝/P.41~42

幽斎は、武道に精進する一方に、和歌や連歌をもたしなみ、心のうるほひを重んずる武人であつた。彼は、また、茶の湯を催し、禪にも心を向けて、心の修養や錬磨をも怠らなかつたのである。文武兩道を兼ね備へた幽斎は、一世に聞えた名将であつたとしても、文の方面に於ても、そのあらはした才能は並々のものではなく、その行ふところ、必ず何ものかをつかみ、その道に何かの力を與へ、足跡を残してゐる。

第三章 幽斎と藝道/二 茶道と料理/P.151


①『古今伝授 細川幽斎と和歌の道』

②新谷弘 ③2018年9月15日

宮津城に落ち着いた細川藤孝は、古今伝授の研究を始めた。三条西実枝から授けられた古今伝授はすでに三条西実枝の次男、公国に還し、責任は果たした。これからは、三条西実枝から受けた二条流の古今伝授だけでなく、他の家に伝わった古今伝授の資料にも目を通して、自分なりに考えをまとめてみたいと思ったからだった。

P.105

明の使節団来訪の知らせを受けて、豊臣秀吉は、接待役を細川幽斎に命じ、一行の警護と案内を細川忠興に命じた。細川幽斎を接待役にしたのは、幽斎の漢籍の教養を見込んだものだった。幽斎なら使節団と筆談も出来る。諸大名のなかでもそれほどの教養があるものは、細川幽斎以外にはいなかった。

P.179

確かに細川藤孝は三人の天下人に仕えました。しかし、それは卑怯だからではなく、彼の冷静で合理的な判断があったからです。さらに言えば、信長、秀吉、家康の三人から必要とされる人材だったからというのが真相です。(中略)
その誠実で毅然とした性格は、彼の武将としての生涯だけではなく、和歌の世界で見せた姿にこそ強くにじみ出ているように思われるのです。

あとがき/P.225~226


①『細川三代 幽斎・三斎・忠利』

②春名徹 ③2010年10月30日

幽斎は、足利将軍に近い血筋に生まれ、乱世を生き抜くためには将軍、織田信長、豊臣秀吉とつぎつぎと主人を変えたが、精緻な政治感覚を発揮して一度も選択を誤らなかった。そして文芸にも心を寄せ、武が盛んであった時代にもかかわらず、むしろその教養によって重んじられるようになった。

序文 わが子への手紙/P.9

忠興の父である藤孝──法名は幽斎玄旨──は万事に有能であり過ぎるほどの人物だった。
足利将軍の側近として出発し、やがて織田信長の臣下に加わり、ついで秀吉の側近となり、しかも家康とも親密という絶妙の政治感覚。和歌に親しみ、『古今集』の伝統をつたえる歌学では一流の教養人である一方、武将としての采配は鮮やかであり、若い頃には牛の角をとって押し返したといわれる力自慢であり、鼓を打たせても一流、乱舞(仕舞のようなもの)、包丁(儀式化した調理法)などでも名が高かった。

序文 わが子への手紙/P.16

清原宣賢の肖像画を目にしたことがあるが、冠をつけて端座した典型的な体裁で、細身で小柄な印象を与えるが、ひたとこちらを見据えている眼は鋭く、浮世離れした知識人ではけっしてない。彼の自筆原稿をみると肖像の面構えにふさわしい骨太な楷書の文字が連なっている。(中略)
幽斎その人の肖像画は(中略)剃髪後の姿で、坊主頭に団扇を片手にして絽の羽織をつけてくつろぎ、斜め上方を見上げる形は月を眺めているかのような姿である。闊達そのものだが、眉は濃く、目は鋭い光りを帯び、多彩な教養人であるとともに、武人であり充分に政治的でもあった人柄が巧みに表現されている。

第1章 幽斎藤孝/出生の秘密/P.24


 いかがだったでしょうか。細川幽斎という人物について、より鮮明なイメージが浮かんだことと思います。えっそうでもない? そんなことないやろ。
 
正直に言って、書籍の中で細川幽斎のことを紹介する文を抜き出すという作業があまりにも多すぎて、大変すぎるというのを早々に察した次第です。いや、無理だわ! 三冊しかここでは紹介しませんでしたが、蔵書マガジンもあるので、よければそちらも参考していただいて、気になる方は本を手に入れてみてください。
 
また別の記事では、更に細川幽斎公をなぞるためのテーマを設け、書けたらと考えています。ひとまず今回はこのあたりで。
 ここまでご覧いただき、ありがとうございました。

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