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「観臓記念碑」(「蘭学を生んだ解体の記念に」、日本での西洋医学・解剖学発祥の地)

杉田玄白らが解剖を見た小塚原刑場跡

★ジャンル【科学】
★場所 荒川区南千住5-33 回向院内
★最寄駅 JR・東京メトロ南千住駅

★碑文
「一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に、『解体新書』五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで これから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。さきに一九二二年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、一九四五年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建て直した」

★解説
 東京メトロ南千住駅なら南口、JRなら西口を出て、いずれからも旧日光街道を渡った場所に回向院というお寺があります。このお寺の墓地へ通じる壁に掲げてあります。
 この場所の「発祥」の位置付けはなかなか難しいのですが、江戸時代の蘭学の大きな起点になった場所であることは間違いないでしょう。
 碑文にもあるように解剖はそれまでにも行われており、記録があるものでは1754年に京都の医師・山脇東洋(やまわき とうよう)が京都所司代の許可を得て、斬首刑にされた遺体を解剖し、1759年に「臓志」という4枚の解剖図にまとめて出版しています。
 その後も多くの解剖が行われましたが、この場所での出来事が画期的なのは、観察者3人、杉田玄白(すぎた げんぱく)・前野良沢(まえの りょうたく)・中川淳庵(なかがわ じゅんあん)がオランダ語の医学書を持ち、その記述と照らし合わせて観察したこと。そしてその医学書の翻訳をここでの解剖から思いたったことで、まさに近代医学、近代科学の画期といっていいでしょう。
 この後の解体新書翻訳作業については「蘭学の泉はここに」の項で詳しく書いております。
 さて、なぜこの場所が解剖場所になったかというと、この場所は江戸での主要刑場の一つ、小塚原刑場がありました。「市中引き回しの上、打首、獄門!」などと

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