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「日本国道路元標」

「日本橋」の文字は誰が書いたのか

★ジャンル【産業】
★場所 中央区日本橋室町1-8-1日本橋西北橋詰
★最寄駅 東京メトロ銀座線、半蔵門線三越前駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国重要文化財に指定されています。」

★解説
 「道路元標が発祥の地か」と詰め寄られると辛いのですが、さすがに「道路の発祥」とは言えないものの、江戸時代以降の道路制度の重要な起点、ということで取り上げさせていただきます。
 しかし厳密にいうと、「日本国道路元標」というのはおかしな存在です。
 「道路元標」には、その前身となる「里程元標」というものがあります。これは明治政府が維新後まもなく、各地を結ぶ道路網を調査し、整備の基本とするために主要幹線の起点・終点を定めたものです。当初は木柱などで設置されていました。
 その後1919年に道路法(旧道路法)が制定され、その際、全市町村に道路の起点終点となる「道路元標」を置くことが定められます。全市町村ですから当時は12000ほどありました。
 これは石造の柱で、縦横25センチメートル、高さ約63センチメートルと大きさもほぼ決まっていました。
 当時は東京市でしたが、もちろん東京にも置かれ、これは日本橋にあったようですが、橋のどのあたりにどのように置かれていたのかはよくわかりません。他市町村と同様であれば、石造の小さなものが橋のそばのどこかにあったはずです。
 この状況が変わるのが関東大震災です。震災後の復興の中で、東京市の道路元標は橋のど真ん中に置かれることになりました。と言いますか、日本橋の真ん中にあった市電の架線柱に「東京市道路元標」と掲げる形に変わったのです。それが都電廃止で架線柱が不要になったため、現在の場所に移設されたわけです。そんなわけで「東京市道路元標」の柱はこんな形をしているのです。
 あれ、変ですね? ここまで「東京市道路元標」の話しかしてません。タ

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