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「工部大学校阯」(東京大学工学部発祥地)

ここもまた東大発祥の地。工学部ですけど

★ジャンル【学校】
★場所 千代田区霞が関3-2
★最寄駅 東京メトロ虎ノ門駅

★碑文
「此地ハ明治天皇ノ聖蹟ニシテ又実ニ我国工学発祥ノ処ト為ス初メ明治四年工部省工学寮ヲ此ニ置ク同六年寮内ニ工学校ヲ開テ同十年改メテ工部大学校ト称シ工作局ノ所管ト為ス翌十一年新築校舎成ルヲ以テ七月十五日明治天皇親臨シテ開校ノ典ヲ挙ゲ給フ皇族大臣参議以下参列シ其義極メテ荘厳ナリ天皇勅語ヲ賜フ中ニ百工ヲ勤ムルハ経世ノ要ニシテ時務ノ急ナリ自今此校ニ従学スル者黽勉シテ以テ利用厚生ノ源ヲ開カンコトヲ望ムノ語アリ次ニ校舎ノ鍵ヲ工部省御用取扱参議伊藤博文ニ賜ヒ博文之ヲ拝受シテ工作局長大島圭介ニ授ケ又奉答ノ辞ヲ奏ス式挙リテ天皇各教場ヲ巡覧シ学生ノ進講ヲ聴キ理科学ノ実験ヲ視給ヒテ後還幸アラセラル恰モ此地ハ麹町区三年町ニ在リ旧延岡藩邸ノ遺阯ニシテ面積約一万二千坪本校舎ハルネイサンス式二階建テニシテ之ヲ中心トシテ博物館実験室工作場生徒館等前方及ビ左右ニ耕地セラレ堂々トシテ虎之門濠頭ニ聳ユ総テ煉瓦造ニシテ宏壮偉観ヲ極ム是ニ於テ土木機械電信造家化学鉱山冶金ノ諸学科備ハリ尋イテ造船学科加ヘ俊才輩出ス同十八年工部省廃セラレタルヲ以テ文部省ノ所管トナリ翌十九年帝国大学令ノ発布セラルルニ及ビ工科大学トナリ綜合大学ノ一部ヲ為ス後本郷区ノ新校舎成ルニ及ビ之ニ移リ虎之門ノ土地諸建造物ハ挙ゲテ宮内省ノ所管ニ帰シ或ハ帝室博物館ノ倉庫トナリ或ハ維新史料編纂事務局東京女学館等ニ使用セシメラル大正十二年関東地方大震災ノ起ルヤ諸建造物皆甚シク害ヲ被リ覆用フ可カラザルニ到ル既ニシテ帝都復興ノ事業始マルニ及ビ旧地ヲ濠清シテ文部省会計検査院華族会館東京倶楽部東亜文化学院等ノ諸建造物新タニ此ニ経営セラル而シテ逐ニ一物ノ旧容ヲ留ムルモノナシ我等工部大学校出身者ハ頗ル懐古ノ情ニ堪エサルモノアリ及チ相謀リテ小記念塔ヲ作リ之ニ石版ヲ嵌入シテ此一大学園ノ由来ト処在トヲ記ス庶幾ハ聖蹟ト史蹟トヲ永ク後世ニ伝フルヲ得ン工学博士大隈喜邦夙ニ思ヲ之ニ致シ辛苦シテ当時ノ遺物ナル煉瓦石材鋼材等ヲ拾集シ以テ此塔ヲ作成ス」

★解説

 この工部大学校が東大工学部の前身ですので、ここは東大工学部発祥の地と言えます。
 このボロボロのモニュメントがあるのは、文部科学省がある霞ヶ関コモンゲートの外堀通り沿いの歩道わきです。この霞が関3-2の街区は、江戸時代はほぼ延岡藩内藤家の上屋敷で、明治維新後の1871年(明治4年)に工部省が作られます。これは西洋の科学技術を国内に導入するための実用的な専門技術者を育成することが目的の官庁でした。
 工学寮を統括する初代工学頭は工部少輔の山尾庸三(やまお ようぞう)でした。彼は伊藤博文(いとう ひろぶみ)らと幕末に日本を密出国してイギリスで学んだ「長州ファイブ」の一人です。イギリスではは工学を専門に学び、欧米に追いつくには日本に工学技術を根付かせる必要があることを痛感して帰国しました。
 そこで山尾はイギリス時代の知己を通じて優秀な教員の派遣を依頼し、その結果グラスゴーの技術教育者だったヘンリー・ダイアーが来日し、都検という名の、実質校長に就任します。また後述する課程もダイアーが考案しました。開校は1873年でした。

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