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台東区にしかない「秋葉原」のなぜ?

23区全区境踏破第9回

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前回は秋葉原近くのJRガードまで来ました。
旧神田市場の北側を走っていた道が、JR線下をくぐっているガードです。
この道の南は千代田区、北は台東区です。

ところで、秋葉原といえば、かつては電気街、今はオタク文化・アニメ文化の街として外国人にも人気の街です。
その中心は秋葉原駅周辺になるわけですが、実は千代田区に「秋葉原」という地名はありません。
千代田区の秋葉原駅西側は全て「外神田」で、東側には南から「神田佐久間町」「神田花岡町」「神田和泉町」「神田相生町」などが並び、さらに台東区から分捕ってきた「神田練塀町」などとなっているのです。
ところが、このガード下の道の北側の台東区の住所は、なんと「秋葉原」なのです。
ええ〜〜〜〜! ですよね。
まあ最寄駅は秋葉原駅にはなりますが、電気店もメイド喫茶もないです。
ここを「秋葉原」と呼ぶのは違和感満載なのですが、どうしてこんなことになったのでしょう。

前回、戦時中にこのラインに区境を変更する際、江戸時代からの練塀町が分断されたと言いました。
かつての練塀町の大部分が神田区になった代わりに、神田区だった「松永町」の一部が下谷区に移されました。
国道4号に面した一角です。
下谷区に残った練塀町は「下谷練塀町」となり、「松永町」はそのままだったようです。
この二つの町に1964年、住居表示を実施することとなり、なんとその際にこの二つの街を合わせて町名を「秋葉原」にしたのです。
どうして「秋葉原」にしたのかはよくわかりませんが、練塀町の大部分が取られた意趣返しの思いがあったのでしょうか(笑)。

そしてかつての練塀町の名は今は千代田区側にしかないのですが、それも寂しいと思ったのか、ガードを抜けてすぐ左側の台東区立の公園は「秋葉原練塀公園」という名称です。

区境は国道4号真ん中で右に折れます。
この国道、首都高沿いの右側の町は「神田松永町」です。
江戸期の「松永町」はずっと南、現在の秋葉原駅前のヨドバシカメラあたりにありました。
現在の「神田松永町」は江戸時代は旗本屋敷が立ち並んでいたため町名はなく、明治期に東京全域に町名をつける際に、近かった松永町の名前をつけたものです。

秋葉原練塀公園

国道沿いの区境はわずかで、最初の信号で左に渡り、正面の通りに入っていきます。
この右側は千代田区の神田和泉町ですが、ここには江戸時代、伊勢津藩藤堂家の上屋敷がありました。
藤堂高虎のお家ですね。
藤堂家当主は和泉守を名乗ることが多く、明治になってそれにちなみ、屋敷を含む周囲の町名としました。
しばらく道はまっすぐですが、これは屋敷の形が真四角だったからです。
江戸時代以前は湿地帯で、埋立でできた土地の多いこの付近は四角い屋敷が多いです。
右手に三井記念病院があるあたりから、江戸時代は出羽鶴岡の酒井家の屋敷となります。その先の清洲橋通りで区境は右に曲がります。
江戸時代もこの道はありましたが、当時は「新シ橋通」と呼ばれていました。
南下した先の神田川を渡る美倉橋が、当時は「新シ橋」と呼ばれていたためです。
曲がって右手のスーパー前に、「国立衛生試験所発祥の地」の解説版があります。
「国立衛生試験所発祥の地」https://note.com/kuroda0805/n/n6041c7328fd8
リンク先は私の解説記事です。

JRの総武線ガードまで南下します。現在はこの総武線高架北側が区境です。
ガードの手前を左折します。
昭和になってできた総武線に区境が沿っているのは出来過ぎですので、これも後代の変更です。
江戸時代はガードの北側に、鷹狩の鷹に食べさせる雀を飼う「餌鳥屋敷」がありました。
そこで明治には町名が「餌鳥町」となります。
今でもここの総武線高架橋の名は「餌鳥町高架橋」です。
そして餌鳥町の隣り、道の先左側は幕府の籾蔵、倉庫地区でした。
このうち餌鳥町は神田区となり、籾蔵は浅草区の向柳原町になります。
ところがここに両国駅から総武線が延伸して、秋葉原につながることとなります。
1932年のことです。
その路線は餌鳥町とかつての籾蔵のど真ん中を貫くこととなりました。
つまり高架線の北側に神田区の出っ張りができ、南側に浅草区の細長い飛び地ができたのです。
これは不都合ということで開通翌年の1933年に餌鳥町の一部を浅草区に変更し、1943年に向柳原町の一部を神田区に移しました。

区境は左衛門橋通りの浅草橋駅西口交差点で右折します。
この通りも江戸時代からあり、東側に鶴岡藩酒井家の下屋敷がありました。
この鶴岡酒井家の殿様は官職名が「左衛門尉」のことが多く、これにちなんで神田川ベリが左衛門河岸と呼ばれており、さらに明治になってその場所に架けられた橋が左衛門橋となります。
で、屋敷跡の町名も左衛門町に改名され、通り名も左衛門通りになり、この左衛門町は浅草区となりました。
まっすぐ行くと、すぐに左衛門橋にでます。
区境は橋の真ん中を通って行きますが、ここから神田川の下流向こう側は中央区なので、橋の真ん中に三区境があります。
この場所に三区境があるために橋の周辺は面白いことになっています。
それはまた次回に。

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