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江戸の屋敷境が区境に。戦中に一部整理

23区全区境踏破第8回

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神田明神の裏参道から蔵前橋通りを渡り、階段坂を登りました。
登り切った左右の坂道が妻恋坂で、下っていきます。
ちなみに手前の蔵前橋通りの坂を新妻恋坂と言ったりもします。
階段上からの区境は道の右端です。
ですから右側の家は千代田区。
神田川を渡って以降、千代田区の住所は全て「外神田」です。
住居表示でこの地域の旧町名は全て消滅しました。

妻恋坂の名は、坂を逆に行ったところにある「妻恋神社」によります。
ヤマトタケル伝説の神社です。
ですから「妻」とは、ミコトを救うために海に身を投げた弟橘姫のことです。
夢見の神社として江戸時代から知られています。

坂を下り、階段の上から数えて左側四つ目の路地を左に入ります。
ここは道の左側が区境です。
しかし区境は右側のビル一つを残して右の街区内に曲がってしまいます。
えーーっ!
なんでビル1個我慢できないのー!
実は江戸時代から大正までここには鍵状の道があり、右はかつては五軒町、左は三組町でした。
はい、もうお分かりですね。
五軒町は神田明神の氏子地域で、三組町は湯島天神の氏子地域なのです。
そして関東大震災後に東側に真っ直ぐな道路(神田白山線)が作られ、ここにあった道路は廃道となりました。
しかし区境は変えられず。そのまま変な境となっています。

千代田区と文京区の境の階段。右が千代田区。左にしか手すりがない

震災後に拡幅された道に出て左に、上野方面に進みます。
文京区の地図では境は道の右ですが、千代田区の地図では左です。
ゼンリンの地図は右なので、とりあえず右と思っておきます。
このあたり、各区の地図によって微妙な差がある場合があります。
進むと三組坂下という交差点があり、その次の交差点で区境は右に曲がります。
交差点の北東角は台東区で、ここは三区境です。
この先、千代田区は台東区と境を接していきます。
二つ先の交差点を左に曲がると、渋沢栄一が維新後に江戸に出て最初に住んだ家がありました。

曲がった区境は中央通りを越え、しばらく進んで右角に「亀住稲荷」という神社がある十字路を右です。
またしばらく進んで蔵前橋通りに出たら左。
区境はJRのガードへ続いていきます。

さてここまで、前回のぐにゃぐにゃ区境から一転して直線的で角張った境が続きました。
なぜでしょう?
これも江戸時代に理由があります。
城下町というと曲がりくねった攻めにくい道路といったイメージがありますが、実際はそうでもありません。
特に江戸のこの辺りは街区が碁盤の目のように広がっていました。

戻って解説すると、三組坂下交差点あたりの真っ直ぐな区境は、東にあった下野黒羽藩大関家の上屋敷の敷地境とそれに沿った道です。
台東区との三区境で東に曲がるのは、この北側に伊勢亀山藩石川家の上屋敷があったからで、石川家の敷地は台東区になりました。
藩邸の境は東にまっすぐ続いており、それが区境。
中央通りを渡った左右は、小倉藩小笠原家の下屋敷が南側(右)に、下総高岡藩井上家の上屋敷が北側(左)に、それぞれ綺麗な長方形で並んでいました。
この両家の屋敷が尽きるとその東は町家(町人地)となり、その手前で区境も南に曲がります。
この町人地は「下谷長者町」で湯島天神の氏子地域。
南に下って蔵前橋通り突き当たります。
江戸時代もほぼ蔵前橋通りと重なる道が東西に続いており、関東大震災後はそれを大々的に拡幅しました。
突き当たり南も町人地ですがここは神田明神氏子地域の「神田松下町」(明治期以降は松富町)。
現代の区境は左に曲がってJRガードまで続き、ガード手前で右に曲がり線路沿いを進みます。

江戸時代はこの手前側は神田松下町でガード側は御家人の屋敷地でした。
御家人とは幕府直臣のうち小禄(だいたい百石以下)の者です。
江戸時代はこの場所の町家と御家人地の境は十字路で直角に曲がっており、十字路はガードよりやや手前にありました。

江戸時代は神田松下町と御家人地との境の道はしばらく南に続き、さらに旗本屋敷街と変わります(旗本は1万石未満)。
この旗本地は現在の秋葉原駅前のUDXビル南エントランスあたりで西に少しでっぱっており、道も屈曲していました。
このため明治以降も旧旗本地は「練塀町」としてまとめられ下谷区でした。
その後鉄道路線が広くなり、さらに震災後にこのあたりに青果市場ができると、下谷区の出っ張りがあるのが不都合になりました。
先ほどのガード手前のちょい下谷区も面倒です。

そこで1943年の都政施行時に境界を引き直し、線路の西側は全部神田区になりました。
戦前の強権政治下ならではの出来事です。
そして線路部分も基本的に神田区にしましたが、青果市場北側の線に沿って通されたガードの北は下谷区のままとなりました。
その結果以前の練塀町はここで分断されてしまいます。
分断以後、練塀町は元は神田地域ではなかったのに、分かりやすくするためか「神田練塀町」となります。

で、台東区側に残った練塀町部分はどうなったか?
これがまた珍妙な命名となります。
それについては次回。

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