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【鉄パイプと夜の海】後編

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波の音を聴きながら月を眺める。海はずっと身近にあった。僕にとって馴染みのある場所であったが、夜になると目に映る姿は全く異なるものだと初めて知った。空と海と陸の境界線が曖昧になる。僕はそれが少し怖くなり始めていた。

「どうする?」

隣で同じように月を眺めていた松ちゃんが僕に問い掛ける。僕は半ば独り言のように「どうしよっかね」と答え、月から真っ黒な海に視線を落とし、溜息を一つ吐いた。もう、どうしようもない。手は尽くしたのだ。ああ、もう。やってられない。なんだこれ。おとなしく家に居ればよかった。ゲームでもしとけばよかった。ベッドだって好きに浮かせときゃよかったのだ。というか母親にバレたくないとか言ってはいるが、バレてただろ。あれ。どう考えても。だってベッド下の収納スペースの許容量越えてるもの。そうさ。わかっていたさ。なのに。どうして、どうしてこうなった。くそぅ。
ふと左手に握りしめていた二つ折りの携帯電話を見下ろす。いよいよ奥の手を使うしかないのか。非常に不本意だ。しかし、こうなった以上はもう仕方がない。理路整然と今の状況と、こうなるに至った経緯を電話で相手に説明しないといけない。さて、どこから話したらいいものか。



田舎町ほど意外とコンビニが多い。夕方に出発した僕たちは、何度か引き返したり、回り道を経て結局同じ方向を目指したり、出発前に却下したにも関わらず黒夢のベストアルバムを延々流しながら一緒に熱唱したりを繰り返しているうちに、海辺のコンビニに辿り着いた。外はもう既に夜の帳が下りていて完全に真っ暗だ。しかも基本的には田舎道である。街灯もそんなには無い。
交替で運転をしていたが、かれこれ五時間ほど移動しっぱなしだ。そろそろ適当に晩御飯を済ませて寝床を探そうか、そんな話も出始めていた頃だった。

「じゃあ、今日はこれで一旦最後にしよう」

と、お互いに確認をして鉄パイプを倒す。カランと乾いた音を立てて倒れた先は海の方角を指していた。
一瞬無言になる二人。普通ならやり直しだろう。もう一回倒して、海じゃない方角へ進むべきだ。普通だったら。いや、普通だったらまずこんな旅には出ないのだが、それは言いっこなしだ。
顔を見合わせ、当然のように「仕方が無い、行くか」と浜辺の方に向かって僕たちは車で直進した。
しばらく進み、車両が入る為の入口を発見した僕は、なんの躊躇もなくそこを通り抜け砂浜に到達する。

壮観だった。

車のフロントガラスの向こうには夜の海が広がっている。いつも乗っている見飽きた車内の風景のすぐ外に非日常があるのだ。僕は思わず息を呑んだ。松ちゃんも同じように目の前の光景をただ眺めていた。おとなしく家に居たら、ゲームでもして過ごしていたら、決して見る事の出来なかった景色だ。それだけでここに来た甲斐があったというものである。
舞い上がっているのを隠すように敢えて平静を装いながら
「もう少しだけ波打ち際の近くまで進んでみようか」
と言いながら、車を前進させた。松ちゃんは「いや、大丈夫か?」としきりに心配していたが、僕はお構いなしに前進する。もっと近くで、日常と非日常の境目を感じたかったのだ。

——今思えば、ここが分岐点だった。

そこから少し進んだ辺りで前輪が砂浜に完全に埋まり、一切身動きが取れなくなってしまった。

当ったり前である。当然である。埋まってからようやく「そりゃそうなるわな」と思った。何故気づかなかったのか。馬鹿なのだろうか。馬鹿なんだろうね。すみません。

僕たちは交互に車を降りて、アクセル踏む度に砂を巻き上げながら完全に空回りをしている前輪を眺める事しかできなかった。最初のうちは「あちゃ~」くらいの感覚だった。「まぁ、なんとかなるでしょ」くらいの。しかし、状況が何も変わらない、どうかしたら悪化しているのを目の当たりにしていると、あからさまに二人揃ってオロオロし始めた。

「木の板を調達してきて、前輪に噛まそう!それしかない!」
と松ちゃんが提案し、
「なるほどな!お前、頭いいな!どこで調達してくる?」
と僕が尋ねると
「二時間前くらいに通った道にホームセンターがあった!そこで買おう!」
と松ちゃんが答え、
「よっしゃ、すぐに車で向かおう!って、車動かねーんだっつーの!
と、僕がつっこむ。
もはや大混乱である。脳が正常に動いていない。元々だろ、とか言うな。……いや、今回は言われても仕方ないか。

このパターンを幾つか繰り返したとき、唐突に松ちゃんが難事件の謎を解いた名探偵のように「わかった!!!」と叫んだ。

「後部座席にあるエロ本を前輪に噛ませよう!」

大混乱の極みである。

瞬間偏差値が2になっていたとしか思えない。
しかし、同じように動揺している僕にとっては、その案は天啓のようにも思えた。むしろそれしかない、とすら思った。もっと言うと、
「それだ!紙って元々は木だもんな!」
とか言った。
引っ叩きたい。もう過去に戻って引っ叩きたい。「元々は木だもんな」じゃねぇ。今の時点での木を探せ。いや木を探せというか、まず砂浜に車で入るな。そこからやり直せ。

さて、そうと決まれば善は急げだ。なんとか夜のうちに脱出するのだ。朝が来ればこの恥ずかしい状況を多くの人に見られてしまう。しかも車内を覗けは黒夢とエロ本の山だ。一生表を歩けなくなってしまう。それだけは避けたい。潮風も車体にはあまり良くないと聞く。一刻の猶予もない。

松ちゃんが後部座席から厚めのエロ本を二冊持ってきて前輪の真下にセットする。運転席に座っている僕に向かって、「いいよ!」と声が聞こえた。抜け出すのだ。この状況から。日常へと帰るのだ。
僕は満を持してアクセルを思い切り踏んだ。


——これは後で松ちゃんから聞いた話なのだが。

僕がアクセルを踏んだ瞬間、エロ本がタイヤの回転に巻き込まれて1ページ、2ページ、3ページ、4ページ、5ページと何枚も捲り上がり、ビリビリと破れてボンネットの中に下から潜り込んで消えていった。

「と、止めてぇえええええ!!!!!」


松ちゃんの絶叫が夜の海に響き渡った。



「……というワケでして」

万策尽きた僕たちは携帯電話でアウトドア好きな先輩に連絡を取り、事の顛末を話した。電話の向こうから聞こえる爆笑する声がひとしきり落ち着いた頃に、「こういうとき、どうしたらいいですかね?」と尋ねた。

「そりゃどうにもならん、JAFを呼びなさい」

「え?あのJリーグの?」

「馬鹿、ジェフじゃねーよ。ジャフ!車内に絶対、電話番号が乗ったシールか冊子があるはずだから、そこにかけて助けてもらえ。あと、あわよくば怒られろ」

そう言って先輩は一方的に電話を切った。
僕たちはその後言われたとおりにJAFに電話をして、四十分後にやってきたお兄さんに「こんなとこで何やってんの」と宇宙人を見るような目で見られ、経緯を説明した後に、失笑しながらロープで引っ張ってもらい無事砂浜から脱出を果たした。去り際のJAFのお兄さんに二ヶ月分くらいの「すみませんでした」と繰り返し、それから、ボンネットの中に潜り込んだエロ本の何ページかをしっかり取り除いた。二人とも手が真っ黒になってしまって大変だった。

しばらくの間、走っているとエンジンルームがある前方からチャリチャリ異音がしていて不安にはなったが、そのうち聞こえなくなった。

近くにあった公園の駐車場に車を停め、お互い顔を見合わせる。さすがに疲れているのが一目でわかったが、さっきまでの窮地を思い出しながら笑い合って、その日は車中泊で夜を明かした。


次の日の朝、昨日までのテンションが嘘のように冷めた僕たちは近場のファミレスで朝食をとりながら

「その辺のゴミ捨て場に全部捨てて帰るか」

と話し合い、その通りに適当なゴミ捨て場にどっさりとエロ本を積み上げて逃げるように帰路に就いた。思っていた以上に魔法が早く解けてしまった。いや、絶対途中で飽きるとは思っていたが、せめて二日目の昼くらいまではいけると思っていた。
確かに初日からクライマックス過ぎたな、と今になって思う。ああいうのはせめて二日目か最終日に起こるべきだ。生き急ぎ過ぎたな、と。最後の方とか、まったく棒倒してないし。めんどくさくて。

帰ってから残りの連休をすべて、家で一人、ゴロゴロしながら過ごした僕は
「二度とエロ本は溜めまい」
と、つまらんテレビを眺めて、煎餅を齧りながら心に誓った。

そして、

「二度と砂浜には車で入るまい」

とも。


あれから十七年という月日が経った。僕の車が夜の砂浜に埋まってから十七年も経ってしまったのだ。結婚し、娘が産まれた。
松ちゃんも今や二児の父だ。最後に顔を合わせてからもう何年も経つが、元気でやっているのだろうか。あいつはあれから、大恋愛の末に大失恋をし、僕の前で大号泣をした事もあった。意見の違いからまぁまぁでかい喧嘩をした事もあった。何をするでもなく、僕の部屋でダラダラと朝から晩まで漫画を読み耽った事もあった。いろんな時間を共に過ごした。
それでも松ちゃんとの思い出を振り返ったときには必ず、最初にあの夜の海と波の音を思い出す。あの鉄パイプが転がる乾いた音と、ひんやりした手触りを思い出す。お互いの笑い声と、浜辺に響いた絶叫を思い出す。もう二度と戻らない、窮屈で鮮やかな日々を思い出す。

そして、二人で一緒に熱唱した黒夢のこの曲を思い出すのだ。

月の明かりは鮮やか過ぎて、何処へ行けば取り戻せるだろう


(了)





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