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風のように攫ってよ

大人になった今でも鮮明に思い出せる。

しんと静まり返った教室の一番後ろ、校庭側の窓際の席。
誰かが鼻をすする音と、鉛筆を走らせるカリカリという音。
黒板には先日やったテストの解答がびっしり書き込まれている。

「間違えた所は教科書を読み返して、何処をどう間違っていたのかしっかり復習すること」

担任の先生はそう言って、教壇のすぐ横に置いた椅子に座り居眠りを始めた。

ときどき、クラスメートのコソコソ囁き合うような声やクスクス笑い合う声が聞こえるものの、みんな真面目に黒板とテスト用紙の間で視線を往復させている。

校庭では他のクラスが体育の授業でサッカーをやっていて、僕はそれをなんとなく眺めながら終業のチャイムを待っていた。

そのとき、誰かが僕の右肩を叩いた。

この状況でそれができるのは隣の席の女子、井上さんしかいない。
「どこかわからない箇所でもあったのだろうか」
そう思い、何気なく振り返ると、思っていたよりもずっと至近距離に、というか目の前に井上さんの顔があった。
「えっ」
と声を上げる間もなく、彼女は吹き抜ける一陣の風のように僕の唇を攫った。

当時、小学三年生。
当然ながら、それが僕のファーストキスだった。


きょとんとした間の抜けた表情で見返すことしか出来ない僕に、井上さんはさっき重ねた唇の前に人差し指を立て
「しーっ」
と言って、はにかむようにして笑った。

はっきり言って、全然そういうふうに見ていなかった。
ただの「隣の席の女子」程度の認識しかなかった。
なのに。それなのに。
もうその瞬間に、僕の世界の中心は井上さんになってしまった。

「そう言えば、すごく可愛いような気がするし、前からずっと好きだったような気もする!」
と胸は高鳴る。走り出した恋は止められなかった。
嗚呼、愛しの井上さん。麗しの井上さん。
僕がいつか大人になったら、そのときは。
親戚のノリオ叔父さんのように、二人だけでハワイの小さな教会で結婚式を挙げよう。
そう胸に誓った。

その日の帰り。
下駄箱のところで僕を待ち伏せていた井上さんが
「後で読んで」
と渡してくれた封筒を通学路で開けてみた。
中には一枚だけ便箋が入っていて、「顔面の七割くらいが目」といった女の子のイラストと、
「すきです。」
という一言だけが添えられていた。
この時点で僕は井上さんの為なら死ねる、というレベルにまで達していた。
頭の片隅でほんの少しだけ
「順序おかしくね?」
とは思ったが、そんな事はどうでもよかった。
既に僕は井上さんに夢中だったし、遅かれ早かれ結婚するんだし順序なんかどうでもいいや。そう思った。その日の朝までは全然好きでもなんでもなかったのに。

こうして、薔薇色の日々は始まった。
休み時間に一緒にお絵描きをしたり、帰る時間を合わせて下駄箱で待ち合わせ、通学路を途中まで一緒に帰った。
クラスメートから「ひゅーひゅー」と、からかわれたりもしたが、それでも僕は幸せだった。

しかし。今になって考えればわかるのだが。
小学三年生にして隣の席の男子の唇を問答無用で奪ってしまうようなおませさんが、こんなテンプレ通りの小学生男子に満足するはずもない。

あの衝撃的な愛の告白から一週間も経たないうちに、鈍感な僕ですらわかるほどに井上さんは落胆しているように見えた。

「このままでは井上さんの心が離れていってしまう」

子供ながらに危機感を覚えた僕は必死で考えた。
彼女の心を繋ぎとめるにはどうすればいいか。
夜通し知恵を振り絞って本気で考え抜いた。

そして、小学三年生男子の僕が死に物狂いで考え抜いた先に「これしかない!!」と導き出した答え。


それは、毛虫を触ることだった。

そうと決まれば話は早い。

僕はクラスメートの“毛虫とか普通に触ってて超かっけー”藤本君に、触っても害のない毛虫の種類をレクチャーしてもらい、どういうシチュエーションで毛虫を触る勇敢な僕の姿を井上さんに見せつけるかをひたすら考え抜いた。

そして、その瞬間が訪れた。

放課後の掃除の時間に、気を利かせた藤本君が校庭で捕獲した毛虫を持って教室に現れたのだ。

悲鳴を上げる女子。
今だ。ここしかない。
見てて。井上さん。

僕はわざと大きな声を出した。

「わっ、毛虫じゃん!いいねぇ!」

そう言って駆け寄り、藤本君の手から毛虫を受け取った僕は井上さんの方を振り返り、キメ顔で毛虫を掲げた。
その勇姿たるや。

計画は完璧だった。
ただ、誤算があったとすれば。

“毛虫とか普通に触って超かっけー”と男子の間で言われていた藤本君が、
実は女子の間では“毛虫とか普通に触って超キモい”と言われていた事。

二つ目の誤算は、害がないってだけで手を這う毛虫に対する不快感はやっぱり拭い去れなかった事。

そして、最後にして最大の誤算は、
「やっぱ気持ち悪っ!!」
と手をブンブン振ったら毛虫が飛んでいき、
その飛んでいった先に井上さんが居た事だ。

この日を境に、井上さんは何故か僕と口をきいてくれなくなった。

何度か彼女の心を取り戻そうと頑張った。
しかし、どんなに頑張ってもその兆しがまったく見えず、変に諦めが早い僕は
「まぁいいか」
と、いともあっさりこの初恋に終止符を打った。
まぁ所詮即席の恋心なんてそんなもんである。

それから十数年後。
当時の同級生から、井上さんが進学した女子高の教師と結婚したらしいという噂を聞いた。

淡い恋の想い出を振り返りながらも、
「今度はちゃんと順序を守ったのだろうか」
と、余計な世話を焼いてしまったのは言うまでもない。


……多分、守ってないな。
卒業と同時に結婚って感じだったらしいし。

流石だぜ。井上さん。

ロックだぜ。井上さん。

初恋をありがとう。
そして、あのときは素直に謝れなかったけど、
毛虫投げて、ごめんね。
お幸せに。

さようなら。僕の初恋。

お金は好きです。