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どうすりゃいいのか、『笑って人類!』

【『笑って人類!』と『日本原論』】

 太田光の最新長編、『笑って人類!』は面白い!
 最初にそれを書いておきます。
 現代の諸問題をたくさんぶち込んで一つのストーリーにまとめ、随所で笑いを忘れない。近未来設定とSF展開でもって人類の存亡をかけて盛り上がった後、最終的に作者の理想をどーんと謳い上げる。ネタ満載、アイデア満載で突き進むエンターテイメント作品です。読者を楽しませる工夫が随所に凝らされているあたりは爆笑問題の漫才ともイメージが重なります。長年のファンにとって、太田光初の大長編小説が出版されたこと自体が嬉しい出来事でもあります。
 そう。僕は長年、爆笑問題のファンなのです。10代の頃、まだ太田プロ所属だった頃に彼らの漫才を見て以来のファンです。何年か後、新宿の紀伊国屋書店で見かけた名著『爆笑問題の日本原論』初版を手に取り、序盤を軽く立ち読みしたら思わず笑ってしまった、なんて経験を経てからは、作家・太田光のファンでもあります。その時は所持金が足らずに初版を買って帰ることができず、その月のバイト代が入った後で買ったらもう第3刷になっていた、なんてオチまでついた思い出です。
 1997年当時の僕は、どうにかこうにか作家デビューはできていたものの、ろくに仕事もなくて金もなく、独立して干されていた頃の爆笑問題に親しみを感じる状態でした。同じように暇と貧乏を持て余していた落語家の友人から、「ちょっと前、太田さんがうちの近所をよく散歩してたぜ。暇だったんだろうな」なんて聞いて、あんなに面白いのにと意外だったことを覚えています。
 そんな頃、爆笑問題がテレビ業界でブレイクする寸前にどーんとベストセラーになったのが『日本原論』でした。それまでにも時事ネタ漫才を活字にした本というのはありましたが、爆笑問題の本には明らかに別次元でした。単に喋り言葉を文字に起こしたのではなく、大の読書家である太田光が読まれることを意識して書いた、読んで面白い文章だったんですね。
 内容的にも、単なるボケとツッコミの漫才ではなく、時事ネタを素材に、そこから物語が展開していくところが僕の好みでした。例えば「『人工知能は人類を救う!』の巻」という章では、小型装着人工知能という機械が開発され、人類がみんなそれを付けて生活するようになって何世紀も経過する、なんて話になります。その設定自体がもうSF小説みたいなものですが、それが漫才形式の会話体で進んでいくのが最高でした。抜粋で引用してみます。


太田――ところが、それから何世紀か過ぎた時に、この機械のコンピューターに或る重大な欠陥があることがわかるんだよ。
田中――なんだよ?
太田――この機械を最初に開発した時に入り込んだコンピューターウィルスによって、あと何年かしたら、機械のすべてのプログラムが消滅しちゃうことが発覚するんだよ。
田中――なんだよそれ!
太田――全人類があせるだろうな。
田中――当たり前だよ!
太田――なにしろ、今まで何世紀も機械に頼りっぱなしで自分の脳を使ってないもんだから、すっかり退化しちゃってるわけだよ。そこへきて、この機械のプログラムがすべて消滅しちゃったら、後に残るのは大バカだらけ。文明も科学もあったもんじゃない、まさに人類の絶滅だな。
田中――恐ろしすぎるよ!
太田――世界中で“緊急サミット”とかが開かれるんだろうな。各国首脳がみんな額に機械つけて集まって、ああでもないこうでもないって話し合うんだけど、埒があかない。
田中――いいかげん、額の機械取れよ!


 僕にとって、こうやって漫才の中で展開していく物語、というのが新鮮でした。物語を書くのに小説の形式に縛られることはない、創作というのはもっと自由でいいのだ、ということを教えてもらった気がしたんです。そんな物語がたくさん詰まった『日本原論』がベストセラーとなり、爆笑問題が以前以上の大ブレイクを果たしていくのを見て、自分まで励ましてもらったような気がしたほどです。
 そして今、2023年になって読み返してみると――この『日本原論』の最後の章に書かれた、人工知能から各国首脳が集まる会議に繋がっていく物語は、さらに膨らんで発展していったようです。なにしろ、2023年刊の『笑って人類!』の冒頭は主要国のリーダーが集結する国際和平会議の場面であり、やがて物語を大きく動かすのは人工知能という設定なんですから。
 太田光の本格的な小説家デビューは短編集『マボロシの鳥』が刊行された2010年ですが、大長編『笑って人類!』の萌芽は1997年の『日本原論』の中にもあったといえそうです。

【『笑うカドには』とヴォネガット】

 『日本原論』が売れまくっていた頃から、巷では「太田光はいずれ小説も出すのでは?」みたいなことが言われていました。彼の文学青年ぶりは既に有名でしたし、オムニバス映画シリーズの『バカヤロー!』で映画監督も務めたり複数の雑誌連載を抱えたりして多才ぶりも評価されていましたし。
 雑誌『TVブロス』では爆笑問題名義でコラムが連載されていました。太田光がエッセイ、田中裕二が紙粘土を担当していたんですが、そのエッセイは時々小説みたいな文章になりました。特に説明もなく、SFがかった設定の短編小説が載っていることがあったんです。『小説新潮』という文芸誌の1997年12月号には「終末のコメディ」という短編小説が掲載されましたが、この作品は世界規模で奇病のウイルスが蔓延して人類が危機に瀕しているという設定で――今にして思えば、その後のコロナ禍を予見したような内容でした。
 他にも、アメリカで作家ジョン・アーヴィングと対談したり、「爆笑問題のススメ」というバラエティー番組で毎週作家をゲストに呼んでトークしたり新人作家をプロデュースしたり、太田光の活動ははっきりと小説家デビューを視野に入れているようでした。
 ですが20世紀中には小説に特化した本は刊行されず、本格的なデビューとはなっていませんでした。そんな中、僕は2002年に、『笑うカドには お笑い巡礼・マルコポーロ』(小学館刊)という本の企画で爆笑問題にインタビューを行いました。太田光が本腰を入れて小説を書く日がくるのか、太田さん本人に尋ねてみたんです。
 以下、自著から何箇所か引用してみます。


――物語を紡いでいくっていう意味で、小説や映画を作ろうっていう意識は、どんな感じでもってますか?
太田「それはものすごく意識はしてますけど、僕も書きたいというか……。田中さえ許してくれるものならば」
田中「書きゃあいいじゃねえか。俺は何も言ってねえだろ!」


 インタビュー中盤、一番聞きたかった質問を意気込んでぶつけてみたら、軽くかわされてしまいました。この後も、太田さんにしては歯切れが悪い回答が続きます。インタビュアーの僕は内心で『日本原論』のような長編小説を書いてほしい、と思っていたんですが、どうも太田さんの中では違う方向を目指しているようでした。


――小説を書くとしたら、やっぱりテーマはお笑いですか?
太田「お笑いですね。SFに近いんですけど……」
――爆笑問題の漫才のスタイルで小説を書いたりはしないんですか?
太田「なんか僕の中でもう一つ、もう一つみたいな……気持ち的に敷居が高いんですよね。自分が今持ってるこのアイデアで成立するかどうか、もうちょっと足りない気がするっていうか。漫才だとこの程度でもう作り始めるんですけど、小説にするとなるとまだまだもっと入れなきゃいけないんじゃないかって考えちゃうんですよ」
――僕なんか逆に、小説なんてもっと気楽に書けちゃうんじゃないかって思うんですけども……
太田「僕の中に何かあるんでしょうね。僕も本が好きですから、ある種の理想が。それこそ本当にヴォネガットなんですけど、ああいうもんが書けたらいいなって本当に思うんですよね。あれが書けたら本当最高だなって思うんですけど。でも自分ではとうていああいう深いところまで書ける自信がないから、まだ程遠い気がして」
――ヴォネガットの『タイムクエイク』にはエッセイと小説とが融合してるような、ヴォネガット独特の語りのスタイルがある気がするんですけど、爆笑問題の漫才そのものがそういう形で物語を語る表現形式になるのでは?
太田「うーん、何ができるのか……最近は、何が始められない原因なのかって分かんなくなってきてるんですけど……もうちょっとかなって気はしてるんですけど」


――太田さんが撮りたい映画について、『ヒレハレ草』(二見書房)に収録されててる「最低人間」っていう短編みたいな話になるっていうのを何かのインタビューでおっしゃってましたが。
太田「それも小説と同じなんですよ。あれは以前『TVブロス』に書いた短編なんですけど、この設定を持っていって膨らまそうって思ってるものなんですね。自分の中だけで、具体的には全然ないんですけど。
 映画撮るにしても小説書くにしても、その物語を基本にしようかなと思ってて、それを肉付けしていく過程なんですけども。断片的にちょっとずつためてはいるんですが……先に文字にした方が分かりやすいかと思ったり、映画で先に作りたいかなと思ったり、その時によって違うんですけど」
――キートンみたいなコメディーになるのかなと、勝手に想像してたんですが。
太田「映画の場合は本当に見やすいものにしたいですね。あんまり意味とかっていうようなのじゃなくて、ドタバタに近くしたいなっていうのはあります。文字にする場合は、やっぱりヴォネガットの世界に近づけるっていうか」


 この引用内で何度か出くる「ヴォネガット」というのは、アメリカのSF作家、カート・ヴォネガットのことです。爆笑問題が所属する芸能事務所、タイタンの名前はヴォネガットの『タイタンの妖女』という長編小説にちなんでいることが有名ですよね。
 単にSF小説と呼ぶのでは足らないような、エッセイとも批評とも呼べるような作風がヴォネガットのスタイルで、クールな文体や短文を連ねる構成は村上春樹にも大きく影響を与えたと言われています。僕はこの取材の中で「太田さん、ヴォネガットがお好きなら村上春樹はどう思いますか?」なんて尋ねてみたんですが、「影響を受けてるのは分かるけど、キザなところがちょっと苦手」なんて答えが返ってきました。その話題が発展しなかったこともあり、『笑うカドには』からはカットしちゃったんですが。
 ともあれ、『笑って人類!』に軽妙かつ毒のきいた風刺がふんだんに盛り込まれていたことをを思うと、この時に語られていた「やっぱりヴォネガットの世界に近づける」という目標は『笑って人類!』で果たされたように思えます。『マボロシの鳥』と『文明の子』と『笑って人類!』、三冊を比べてみると、『笑って人類!』が一番、ヴォネガットの世界に近いと感じるのは僕だけじゃないですよね。
 そしてこの時の、映画と小説に対する発言からも『笑って人類!』が連想されます。『笑って人類!』も最初は映画の企画として立ち上げられ、脚本チームまで組まれて脚本を仕上げたのに、映画の配給会社の役員会議で反対されて映画化が実現しなかったそうですから。その脚本を元に長編小説の形にし、時系列的な整合性を整えて出版されたのが今回の本だ、ということが、刊行時のインタビューなどで何度も語られていました。
 そういう意味では、僕は2002年のインタビューで『笑って人類!』の核になった部分に迫っていたのかなあという気がします。――いえ別に、自分の着眼点を誇りたい、とかではなくて、当時の僕にはこういう形で『笑って人類!』が出るなんて想像もつかなかったんですけども。

【描写とツッコミ】

 インタビュー当時、太田光は今のようにバラエティー番組内で政治的な発言をするとか、選挙番組でキャスターを務めるとかの活動はしていませんでした。
 むしろ「政治には興味がない」と公言していたくらいで、僕も「政治より大衆文化の方がよっぽど影響力がある」とか「そんなに優秀な候補が並んだ知事選挙だったら、落選した人が副知事をやればいい」といった発言を覚えています。ファンとしてもそりゃちょっと違うだろうと思いましたし、「TVブロス」誌上の対談企画でロックミュージシャンの忌野清志郎が「そんなことじゃいかん!」と公開説教、なんてこともありました。
 その後、爆笑問題は政治家や文化人との討論番組をヒットさせましたし、太田光名義で憲法論議の共著なども出されました。近著の『芸人人語』シリーズでも、分厚い本のかなりの割合が政治談議に割かれています。
 そうした活動から受けた影響が随所に確認できる、というのも『笑って人類!』という本の魅力の一つでしょう。少なくともファンとしては、「あの政治家の発言がこの場面に生きている」とか「あの主張を物語に落とし込むとこうなるのか」といった形で物語と現実との絡み合いを楽しむことができました。
 ところが、です。『笑って人類!』を読みながら、僕は楽しさと同時に戸惑いも抱いていました。
 それをセリフにすると、こういうことになります。
「太田光って――こんなに描写、下手だったっけ?」

 そもそも冒頭の1ページ目をを読んだ時点で違和感がありました。
 話の筋がちっとも動かないんです。ニュース番組のタイトル映像や国際会議場からの中継について、ものものしい描写が上下2段で3ページ以上も続くばかりです。目次の次には[主要登場人物]ってことでずらりと大勢の名前が並んでいたってのに、その登場人物の誰も出てきやしません。テレビ画面の情景描写が続く中で設定が語られもするんですが、オノマトペや体言止めばかりが目につきます。
 無論、それが物語の冒頭として効果的な演出になっているなら文句はないんです。なのに最初の数ページ、描写ばかりで話が動かないので、やけに勿体ぶっている印象があります。こういう書き方、それまでの『マボロシの鳥』や『文明の子』ではなかったはずです。『マボロシの鳥』収録の「冬の人形」という向田邦子風の短編では丁寧な心理描写がありましたし、『星の王子さま』と『銀河鉄道の夜』を合わせたような「地球発……」という短編では宇宙の情景描写が詩的な雰囲気を生んでいましたが、どちらも抑制の効いた筆致で、決してしつこくは感じませんでした。
 その点、『笑って人類!』の描写は、そこまで書く必要はないんじゃないかってくらい執拗です。これが『日本原論』の漫才文体であれば、「国際テロ組織との和平会議が開かれるんだけど、会議場は温暖化で沈む島国で、そこがとんでもない暴風雨に見舞われてるんだよ!」なんてセリフ一つで済みそうなところですし、漫才で太田さんが声を高めてまくしたてればそれだけでワクワクしそうなところですが……あまり「いかにも小説風」って感じで書かれると、どうも読み進めるのが辛くなってしまいました。
 もちろん、世の中には「小説の神髄とは描写である」なんて考え方もあります。『笑って人類!』を本格的な長編小説に仕立てようという意気込みから、しっかりと描写されたのかもしれません。ですがその描写の精度があまり高くないせいで、読者として物語に入り込みづらく感じました。
 例えば開始2ページ目にあたる11ページ上段、国際会議場のドームについて描写するこんな一文があります。


各国から歴史的瞬間を伝えようと押し寄せてきたテレビクルーが各々手持ちの照明をつけると、光の中に雨のしずくが反射して霧状に舞い、銀の球体はより幻想的な建物に見えた。


 4行にわたる長い一文です。別に文法的に間違ってるわけじゃないですが、ぱっと一読して分かりにくいです。「テレビクルー」と「雨のしずく」と「銀の球体」、三つも主語があるせいです。まあそれぞれの主語に対して「つける」「舞い」「見えた」という述語が対応しているだけ親切ではありますが、最後の「見えた」という述語に誰かの視点が入っているようにも受け取れるので、文章のピントがボケてしまっています。
 こういう描写は映像であれば一瞬で済みますが、小説の場合は読者の負担になります。慣れない人はいちいち意味を汲み取って情景を思い浮かべて……とやる手間がかかるんですね。分厚い本でも読み慣れている人ならぐいぐい読み進んでいけるでしょうが、僕個人はストレスの方が大きかったです。そういう手間をかけて読み取ったテレビクルーの様子やドームの情景が物語に必要かというと、ほんの序盤に出てきただけであっさり退場してしまいますし。
 言葉選びのズレや矛盾点というのも結構ありました。例えば347ページ、「モザイクのように複雑に絡み合った民族紛争」という表現が出てくるんですが……「モザイク」ってのは複雑に絡み合ってはいないですよね。むしろ絡み合うのとは反対に、分割された小片のことを「モザイク」とか「モザイク模様」というのではないでしょうか。絡み合った模様を描いたモザイク絵画というのもあるかもしないし、ある種の絡み合いの映像にモザイク処理を施すことはあるでしょうけども。
 このあたり、漫才だったら「それを言うならモザイクじゃなくてアラベスクだろ!」ってツッコミを入れたいところです。アラビア風の唐草模様という意味の「アラベスク」だったら、絡み合った様子の比喩にもなりそうですからね。
 何はともあれ、民族紛争を喩える際に「モザイク」というのは不適当です。迂闊に「モザイクのように」と書いてしまうと読者はそれぞれモザイクを思い浮かべますから、続く「複雑に絡み合った民族紛争」と矛盾して引っ掛かっちゃうケースもあるわけです。
 また、344ページ上段あたりでは、「高知能幼児教育機関」について語られるんですが、ほんの2行後には「IQの高い児童を集め」と「幼児」が「児童」に変わっています。その児童の親には「子の将来の保証とともに多額の報奨金が支払われた」とあるので元は一般家庭の普通の子供だったのがエリート教育を受けることになったのかと受け取れるわけですが……終盤の478ページあたりになると、その教育機関で育った者について、「遺伝子操作によって創り上げた人間兵器」なんて書かれています。これなんかも、漫才だったら「いつの間にか設定が変わっちゃってるよ!」ってツッコミが入るとこですよね。
 他にも、12ページ下段、アメリカを思わせるフロンティア合衆国の大統領が滞在する部屋では「テーブルに置かれたグラスには氷とスコッチが入っていた」なんて書いてありまりますが、128ページ、東京の新宿を思わせるS地区というところのバーで総理大臣の秘書が飲むのは「ウィスキーの水割り」と記されます。ここはやはり、「スコッチだってウィスキーじゃないのかよ!」ってツッコまずにはいられません。まあ大統領はビンテージ物の高級スコッチを飲んでいて、新宿では安い国産ブレンディット・ウィスキーが出るということかもしれないし、太田さんは下戸だそうなのでウィスキーの種類になど興味がないだけかもしれませんが……
 こういう点が気になるのは僕がツッコミ気質ということもあるでしょうし、あまりしつこくやってると「揚げ足をとるのはよくない!」なんてツッコミを入れられることにもなりそうです。でも、この手のブレが『笑って人類!』の全編にわたって散見されるとなると、やはり指摘しておきたくなります。これまでの太田光作品を読んだ時にはこれほど気にならなかったのに、どうして最新作になって増えたんだろうと不思議なくらいです。
 そこで今回、『笑って人類!』の後で『マボロシの鳥』や『文明の子』を読み返してみました。すると分かったのは、描写が増加したのはどうやら意図的なものらしい、ということでした。紋切型の比喩やオノマトペの多さについても、ある程度は自覚的にそうしているようにも見えます。ですが意味のブレについてはやはり無自覚なものでしょう。ちょっと推敲すれば直ることだし、せっかく面白い作品なのにもったいない、と思うのは僕だけじゃないと思います。
 そのあたり、もうちょっと指摘してみます。

【紋切型と視点】

 僕は今回、『笑って人類!』を読みながら、時々Twitterに感想めいたことを書き込んでいました。読書の途中経過を記したくもあったし、読みながら感じるストレスをためこまないように発散していたんです。
 例えば376ページには、こんな文章があります。


 空港は閉鎖されており、管制塔は暗いままだったが、滑走路灯だけがかろうじてついており、広い空港は星空のようだった。


 この文章について、僕はこんなツイートをしていました。


…と、『笑って人類!』を楽しんではいるけれど。

やはり不満はある。せっかく盛り上がってんのに下手な比喩で戸惑うのだ。視点の問題もそうだけど、「太田光には見えてるんだろうけど読者に見せる配慮が足らない」ってのが多い。

ここにきて星空の比喩が連発されてるけど、定型句に頼りすぎな上、
https://twitter.com/kurobey/status/1655868771792478209?s=20


意味がズレてるようだと頁をめくる手が止まる(おっと定型句!)。

例えばP376。閉鎖中の夜の空港、滑走路灯だけついた光景は、「星空のようだった」でいいのか? 平行な点線2本光ってる星空なんて見たことないぞ。

一方でP411、NYの摩天楼は「宝石をばらまいたような夜景」。そこで本を閉じた。
https://twitter.com/kurobey/status/1655868779489013761?s=20


 我ながら、なんだか偉そうなツイートで恐縮です。まあ『笑って人類!』にも描かれていたように、ネット上の言説というのはこうなりがちなのかもしれません。
 それにTwitterの140字制限の中ではどうしても舌足らずになっちゃいますが、僕が376ページで思ったのは、「そんな星空なんて見たことない」ってだけじゃなく、「夜の空港なら、閉鎖されずに管制塔や他の施設のたくさんの明かりがついている場合だって『星空のよう』って比喩が当てはまる。ここは『滑走路灯だけがついている』という場面だから、普段の空港でも当てはまる比喩では意味がボケてしまう。どうせ比喩を使って描写するなら星空以外に喩えるべきじゃないか?」ということです。
 例えば、「暗い海にかかる橋のようだった」と書いたらどうでしょう。特に優れた比喩でもないけど、全体の暗さと滑走路灯というイメージに繋げることはできるはずです。どうせ比喩を使うならそういう使い方の方が効果的だし、何度も星空が出てくると読者としては興覚めです。
 実際、ちょっと後の389ページではこんな文章が出てきます。


 戒厳令で明かりの消えたフロンティア空港周辺。いつもは見えない星々が空に瞬いている。


 ここでは比喩じゃなく本物の星空です。比喩の星空と実際の星空を対比する狙いがあるのかな……と思っても特にそういう効果はないようだし、どうやら太田光は単純に星空について書くのが好きなんだな、というのが伝わってきます。実際、「光」という名前へのこだわりなのか、これまでの作品でも光とか星とかを扱うことが多かったですしね。
 星空の比喩は他にも出てきます。地下の巨大都市の天井の電灯は「星空に見えなくもない」(402ぺージ)、テロ組織の基地では「夜空の星々のように無数のモニターが光っていた」(497ページ)といった具合です。……こう何でもかんでも星空に喩えられると、やはり安易な言葉選びといわざるをえません。

 星空に限らず、「○○のような××」っていう直喩表現が多いんですが、僕はそこにも引っ掛かりました。なにしろ、冒頭の3行を読んだだけで「耳をつんざくような奇声」とか「叩きつけるような雨」などと連発されていますし、どちらも太田光オリジナルというわけでもなく、よくある表現です。そういう表現が冒頭3行に限らず全編にわたって出てくるせいで、僕はうんざりして「定型句に頼りすぎ」とツイートしたわけですね。
 やはり太田光には、「小説とは描写である」って思い込みがあるようです。もちろんそれも間違いではないわけですが、小説家はそれぞれ、その描写で工夫を凝らすものです。ですが『笑って人類!』の場合、描写というと安易な比喩に頼る傾向があるのが難点です。ネット検索してみると、ファンが漠然と褒めている声が目立つ中、批判的な人は大抵この点を挙げています。
 もちろん、そういう比喩にも利点はあります。定型句のおかげで誰にでも分かりやすく伝わり、大勢でイメージを共有しやすいんですね。これが映画脚本とかテレビ台本であれば、分かりやすい表現で書いた方がスタッフにも意図が伝わり、その道の専門家が魅力的な映像にしてくれるということもあるでしょう。下手に凝った表現で書いておくより、紋切型の定型句の方が各所の現場スタッフを活かしていい結果を生むのかもしれません。
 ですが小説の表現としては、やはり減点対象でしょう。僕は小説に点数つけるなんて下らないとは常々思ってますが、それでもこの『笑って人類!』という作品を読んでいると「減点」という言葉を意識してしまいます。前述したような長所も多くあるだけに、かえって粗が目立つんですね。
 ただし、これは作品性とか作家への評価とかとは全く別の話です。漫才なら「声が聞き取りづらい」とか「マイクが壊れている」ってレベルの物理的な問題と一緒です。太田光の文章は決して難解ではなく、むしろ読みやすくて分かりやすいものだけに、推敲や校正の段階でちょっと直せば一気に改善されるものだと思います。
 それだけに、僕としてはもったいないと思うんです。太田さんが「文学賞がほしい」「多くの読者に届けたい」と公言しているだけに、些細な問題での減点の積み重ねで落選してほしくはないんです。もしも同じくらい面白い候補作が2つあってどちらか1つに絞るとしたら、そりゃあ「紋切型の比喩がピンボケな方を落とそう」ってなっちゃいますからね。

 それから、同じような減点対象として、視点の問題というのがあります。
 『笑って人類!』は三人称多視点というスタイルで書かれていますが、この多視点というのが曲者です。映像表現であればカメラを切り替えたり別カットを繋いだりするだけで視点が変わったことを示せますし、現代の視聴者なら多視点の切り替えにも慣れています。ところが、そんな映像を思い浮かべている作者が文章の工夫を怠ると、読者の方が混乱してしまいます。
 これの例としては、第一部「混乱」の終盤、204~205ページあたりが顕著です。


 小声ではあったがやけにはっきり聞こえるのは、富士見がインターフォンのマイクに顔を近づけているからだろう。
「……実はここには、先日のテロと深くかかわっている人物がいるという情報がありまして……」
「テロ!……テロリストがここにいるんですか!」
「しーっ。……どうか小さな声で。……実は我々もつい最近入手した情報でして……それにしても浅間先生はさすがだな。既に我々より先にいらっしゃってるとは……ご自分の身の危険もかえりみずに……」
「危険? そういえば主人もさっきそう言ってました。あなた? 大丈夫なの? 無事ですか? あなた!」
 突然インターフォンの画面にヌッと現れたのは軍服を着た屈強な男だった。
「ひっ」と、悲鳴を上げた須美子は尻もちをつく。


 抜粋なので状況や話者が誰かは分かりにくいかと思いますが、注目してほしいのは地の文です。
 最初は「マイクに顔を近づけているからだろう」と思っている人物の視点で書かれています。インターフォンの向こうに富士見がいるという位置関係ですね。
 その後の地の文では「突然インターフォンの画面にヌッと現れたのは軍服を着た屈強な男だった」と書かれています。特に視点が変わったという説明もないので、読者としては、「富士見と軍服を着た屈強な男は同じ側にいる」と把握します。その反対側で、須美子が尻もちをついていると想像できます。
 ところが実際は違うんです。富士見と須美子が扉の外にいて、視点人物と軍服を着た屈強な男が扉の内側にいるという設定なんです。この短い引用文の中で、いつの間にか視点が切り替わっているわけですね。
 映像であればカットの切り替わりで伝わることですが、小説の場合はそうはいきません。かなり親切な読者が想像力を働かせ、作者の意図に寄り添って初めて分かることです。それはつまり、ストレスの多い文章ということになります。
 これは僕の偏見かもしれませんが、読書家にはこういう悪文を書く傾向があるようです。自分が本を読み慣れていてぐいぐい読み進められるものだから、つい読者への配慮を忘れがちなんですね。書いてる本人にはその状況なり設定なりが見えているので、相手も分かって当然と思っている節があります。
 『笑って人類!』には、こういう視点の混乱も散見されます。基本的には改行とか一行開けとか章替えとかでうまく処理されているんですが、それでも何度か戸惑いました。たぶん脚本から小説に仕立てた際に、元はカットチェンジであったところが文章の中に残っちゃったんでしょうね。
 これも紋切型の比喩と同じく、ちょっと推敲して整理すれば直る問題です。どうして幻冬舎の編集者などが、作者以外の目で指摘しなかったのだろう、太田光の本であれば売れ行きが見込めるだろうから特に校正の手間をかけなかったのだろうか……などと、つい邪推したくなります。

【どうすりゃいいのか!】

 ……と、粗さがしみたいな文章が続いて長くなりました。そういう指摘をしようと思えばこの何倍も書けそうですが、それも申し訳ないので、最後に改善への提案をしておこうと思います。
 前述したように、粗はあっても『笑って人類!』には魅力もあります。いえ凡百の作品よりはるかに魅力的といってもいいはずです。それだけに、もう一段階推敲してほしいと思うんです。
 そこで提案したいのが、作者太田光だけじゃなく、推敲グループを作ってこの作品を検討する方法です。刊行済みの作品は今さら直せないという考え方もあるでしょうが、念願かなって映画化されるとか、文庫化の際に大幅に手直しするとか、機会はある気がします。あるいはドラマ化とか漫画化とか、外国語に翻訳されるなんてこともあるかもしれません。そういう時に磨きをかけてほしいと切に思います。
 もしもそういう機会があったら役立ちそうなのが、僕が学んだ昔ばなし大学で行われている方法です。
 昔ばなし大学では、口承文芸として伝わってきた昔話を読みやすい形で文章にまとめる再話活動を行っています。その成果は書物の形で多数刊行されているので確認してもらえば分かると思いますが、その再話活動の特徴の一つに「必ず複数人で検討する」というのがあります。再話グループを組み、昔話の文芸理論を踏まえて読みやすく聞きやすい文章というのを作っていくんですね。
 その文芸理論というのも昔ばなし大学で学びますが、特に難しすぎるものではありません。再話グループに参加している人の中には、講義中に居眠りしていた人とか教科書もろくに読んでいないという人も結構います。もともと市民大学で入学試験があるわけじゃないですから、集まっているのは普通の人ばかりです。
 その普通の人の感覚を持ち寄り、複数の目でチェックし合うことで文章を磨きます。言っちゃあなんですが、『笑って人類!』という本にはそうした工程が不足していたようです。太田光という稀有な才能をもってしても、複数の目によるチェックには及ばない点もあるのでしょう。
 いえ、『笑って人類!』がノーチェックで刊行されたとは思いません。映画化を目指していた時点では脚本チームが作られ、太田さんが書いたものをスタッフと囲んで意見を言い合っていたと公言されています。小説になった時点で編集者によるチェックも入ったことでしょう。
 ですが出版界の慣例として、校正というのは一対一の作業になりがちです。漏れもあるでしょうし、作家性を大事する慣例が先立って強い直し要求をしにくい場面もあるでしょう。討論の様子を見る限り、太田さんは人の指摘を無視するタイプじゃなくてむしろ反対意見を面白がるタイプだと思いますが、太田光ほどのビッグネームともなれば出版社側が委縮することだってありそうです。
 でも映画化を目指して脚本チームを組んだのなら、小説化に際して推敲チームを作るべきだったと思います。普通の小説家には無理でも、太田光であればタイタン所属の構成作家・放送作家陣もいるでしょうし、長年続いているラジオ番組ではネタ職人と呼ばれる人たちが太田光直系の弟子みたいに育って作家になったりもしています。そういう人たちが作者を囲み、昔ばなし大学の再話グループのような形で『笑って人類!』を推敲したとしたら、確実にレベルアップするはずです。
 そんな形で磨かれた『笑って人類!』を、ぜひ読んでみたいなーと思っております。太田さんが『笑って人類!』を多くの読者に届けたいと思っているように、僕の提言も太田さんに届くといいのですけれど。

お気に召したらぜひよろしく。 励みになります……というか、お一人でもおられるうちは続けようと思ってます。