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就職してジェンダーフルイドの自分に気づいた話【後編】

こんにちは。私は大人になってから自分が性的少数者のジェンダーフルイドであると気付いた者です。前回は、そのきっかけになった学生時代から就職活動までの話を書きました。後編をまとめようと試行錯誤している間にだいぶ時間が経ってしまいましたが、今回は、就職してから違和感がさらに大きくなり、自分の性がどうしても普通ではなく、どうやらジェンダーフルイドの特徴に当てはまると気付くまでを書きたいと思います。

ここから先に書く話は、性的少数者の中でもさらにマイノリティの話であり、また、全てのジェンダーフルイドに合致するものではありません。あくまで個人の体験と思考に基づくものです。


就職後に気づいた違和感の正体

前回は、学生時代から自分の格好の振れ幅、特に性表現が「ごく自然に、とても広くなってしまう」こと、それを「意識して統一しようとすると辛くなってしまう」ことに気づいていた私が、ある程度服装に自由が許される企業に就職するまでを書きました。

その企業で過ごした数年間は、社会で自立して生きる上では学びに富んだものでした。ただ、新卒として就職した私は、早々に自分の特徴が「服装」だけでないことに気づきました。周囲の社員が新卒に求める「女性/男性の社会人の普通」が、考え方や行動の仕方まで自分のそれと大きくずれることが多かったのです。

日本企業には、新卒を「これから企業全体で育てる人材」とみなし、皆の弟や妹のように扱うような傾向があると思います。いわば、家族のような存在です。私のいたところも、まさにそのような気風を持った組織でした。

新卒の数が少なく、かつ社内恋愛や社内婚が多かった私の企業では、彼氏彼女の有無や結婚願望の有無といった話題が普通に出ました。そういった話題を先輩たちから振られると、身体的な性が女性である私は当然「女性」としての視点や意見を求められます。しかし自分の視点が女性でないことがよくある私は、周囲を混乱させないよう、笑って受け流すことが増えました。

「周囲の誰にも当てはまらない」自分の姿

幸運なことに、個性豊かで優秀な同期たちに恵まれた私は、彼らと一緒にいる間はいろいろな話題を交換するか、もしくはお互いの仕事について純粋に相談することができました。

ただ、先輩や他の同僚たちからは、ときどき「メイクをあまりしないんだね」「時々レズビアンの男役に見える」と冗談のように言われることがありました。これは自分のジェンダーがときどき中性や男性に近い方向に振れたからでした。また、過去に辞めた方の中に性転換をした方や同性愛者がいた、といった話題が出た時、なんとなくそうした人たちが「面白い話のネタ」扱いされていることに気づき、気まずくなることがありました。

これは当事者にしか分からないことかもしれませんが、正直、髪型や清潔さといった身なりを整えることは徹底しても、自分のジェンダーが「女性」でない時に無理にメイクをしたりスカートをはいたりしようとすると、どうしても動き方や振る舞い方に「変装」や「女装」をしている違和感が出てしまいます。そうした不快感は業務のパフォーマンスにも影響を与えてしまいます。

正直、当時の自分にとっては集中して業務をきちんとこなすことが最優先でした。研修期間が終わってからは、人前に出ず、技術や知識がものをいう部門に配属してもらい、自分なりに前もって各業務の段取りを考え、周囲とできるだけ根回しして業務をスムーズに流すようにしました。

私が恵まれていたのは、ある程度忙しい部門にいたことです。他部門の人たちに「あの人とは仕事がしやすい」と言ってもらえるようになり、ある程度実績を出せるようになると、中性的な格好をして出勤していていようが、周りは個性だと捉えて受け流してくれるようになりました。

無意識のルール、その美しさと息苦しさ

そのような中であっても、新卒で入った企業で「社会人の普通」に当てはまらない自分に気付いた自分の違和感や息苦しさは、少しずつ積み上がっていきました。

LGBTQや性的少数者といった存在が真面目に先進国で受け入れられるようになったのは、ごく最近の話です。私が性自認に無自覚なまま疎外感に苦しんでいた子供の頃よりも、少なくとも日本の中だけで言えば、世の中はずい分自由になった、と思います。というか、必死で頑張らなくても自分次第で息苦しさから抜け出せるような選択肢のある世の中になった、と書いた方が近いかもしれません。

先進国の中でさえ、欧米の中には「性的少数者である」というだけで命を狙われるようなコミュニティがあります。宗教的な理由や個人的な理由で、私たちのことを「本来存在してはならない人間だ」と本気で認識する人たちもいます。そうしたことを考えると、良い意味で他人の性別の曖昧さを受け入れるところがあるこの国は、比較的寛容な方だと個人的には考えています。

もしも、この日本が自分の性別など特に気にしなくても気ままに生きられる社会なら、自分が何者であるのかなど、私も特に考える必要はなかったのかもしれません。

ただ、この身で経験したことを振り返ると、学校で集団生活を送り、進路を選択し、就職して経済的に自立する過程では、必ず「大人としてルールを守り、周囲に混乱や不快感を与えない『普通の人間』として振る舞うこと」を高い基準で求められるのが日本です。

この点は、物事が高いレベルでスムーズに運ぶ社会を生み出す、という意味ではとても良い方向に機能していますし、私もその恩恵を受ける一人です。ただ、社会人同士が「男性」「女性」としてお互いの振る舞いや格好を無意識のうちにさまざまなルールで縛る、というところもあります。

こうしたルールには、服装や化粧といった装いに形式的な美しさを与える力がありますし、個人的には嫌いではありません。ただ、自分をその縛りの中に置き続けることは、私にとっては文字通り論外なのだ、と悟ったことが、自分の性の流動性に気づく大きなきっかけになりました。その時から、私はLGBTQ関連の記事や当事者の皆さんの投稿をより注意深く探しては読むようになりました。

自分のヒントを見つける

ある日、たまたまSNSで目にした翻訳記事で、ネイティブ・アメリカンのコミュニティにあったダブル・スピリットーLGBTQの人々を「複数の魂を持つ存在」として受け入れる伝統があり、かつて彼らの中に「日によって性が変化する人」がいて、現在は彼らのような人々は性的少数者の中でもジェンダーフルイドと呼ばれている、という趣旨の記述を目にした私は、なぜか心からほっとしました。感覚的に、それが自分と同じ種類の人である、と分かったからかもしれません。

意識しないと自然な声音から振る舞い、姿勢まで変わってしまう。それが常に変わり続けてしまう、という自分と同じ特徴を持つ人は、周囲を見回してもいませんでした。自分は病気なのか、思い込みの強い状態に陥っているのか、それともこれが生まれ持ったものだとしたら、それが何なのか。無意識に思考のループに陥っていた私にとって、それは大きなヒントでした。

同じ種類の人間が、昔からいた。少数派だけれど、社会の一員として生きていた。それを知ったことが、ようやく私自身に「なぜ普通ではないのか」と問うことをやめさせ、冷静に受け入れる余裕をくれたのだと思います。幼少期に違和感を抱いてから、実に20年以上が経過していました。

長々と読んでくださり、ありがとうございました。もしもこの記事が少しでも役に立つことがあったら、いいねボタンを押してください。

それではまた。

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