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夜は明けて霧は晴れるのか?

ナチスの強制収容所に収監されたユダヤ人精神科医故ヴィクトール・フランクルの名著「夜と霧」を読んで、たまに思い出す一節

ー「たとえ不正に苦しんだものでも不正をする権利はない」ー

強制収容所で励ましあい共に解放された仲間が眼前に広がる小麦畑を抑圧の反動から無残に踏み荒らしそれを咎めた際に、激昂を交えて「自分が壮絶な受難にあったのだからこれぐらいは許されるはず」だと反論された際の回想した際の一節。(手元に書籍ないから記憶を頼りに書いてる)

俺は人の失敗に関しては寛容に振る舞う一方、自分の失敗を責められたときに、「俺は許してるのになんでそんな責めるん?」と反射的に思考するタイプであり、自分が誰かに何かをしてあげたときに、そのお礼がなかった時にモヤッとすることがある。そんな時にこの一節がたびたび心に浮かぶ。まぁ俺は思うだけで物に当たったりはしないから表面的に見ればフランクルの言葉のとおりに自制はできているわけだけど、心の中では相手を睨んでいる。外面は自制をできてるけど、心の中では小麦畑を踏みつぶす気持ちがグラグラと湧いている。いわば逆返報性の原理みたいなものかな。「俺がこうしているからお前もこうしろ。」そう考えるとすごい傲慢な心情な気がする。

フランクルの言葉はとても正しい。社会を生きるヒト族の振る舞いとして、皆がそう自制できれば平和になるだろう。けど正しさがいつも心を晴らすわけじゃない。

小麦畑を踏み荒らす衝動に駆られる抑圧解放者の内面と自制をしようとする自己の倫理観の衝突でモヤモヤは晴れることない。

俺の夜はいつ明けて、霧は晴れるのか?



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