見出し画像

富士日記と過ごした一年

双子のライオン堂さんと、作家で機械書房店主である岸波龍さんとが開催、1年かけて武田百合子「富士日記」を読む読書会が終わった。12回全て参加、皆勤賞だった。小学生以来かもしれない。

『遊覧日記』で武田百合子と出会い、著作はほぼ読んだのに、『富士日記』は拾い読みする程度で、実はきちんと読んでいなかった。月に一度、100ページ程度をみんなで読むなら読み切れるかな、というので参加を決め、見事にハマった。最初は『遊覧日記』や『日々雑記』の、あの独特なものの見方の兆しを見つけるのが楽しかったが、じきに『富士日記』そのものに魅了された。

自分の生まれた昭和39年(1964年)から始まる、というのも良かった。東京オリンピックがあった年だ。マラソンランナーのアベベの姿は母のお腹の中で見たらしい。食べていたもの、固有名詞、行動様式などが、分かり過ぎるほど分かり、読めば読むほど芋蔓式に自分の記憶が蘇り、12回を終了したいまは、昭和を生きなおした、という感覚を持った。

百合子が運転し、赤坂から富士に向かう道筋も、高速道路が開通したりして、いくつか変わっている。途中で食事をする店や、買い物をする店も、恐らく古くからある個人商店から、洗練されたレストランや大手のスーパーマーケットに変わっていく。父のブルーバードに家族で乗り込み、郊外に出来たリゾート施設に向かい、ロードサイド沿いに出来たドライブインで食事をし、1969年に出来た「日本初の郊外型デパート」と言われる玉川高島屋で買い物をしていた、私たち家族の姿が重なる。モータリゼーションの時代だったのだ。

ああ、そうだった、こんなこともあった、と途中で何度も思った。

五月、旅先の雪の立山で読み始め、夏は公営プールのプールサイドで読み、秋、泰淳も滞在したという熱海の起雲閣のカフェで読み、クリスマスイルミネーションの街角で読み、桜の下で読み進んだ。思えば、この一年の景色の中に、いつも『富士日記』があった。

日記の最後の昭和51年(1976年)、百合子は、今の私の年齢に近い。子供が成人して親のサポートに回り、体を労りながら、イトーヨーカ堂で二枚295円のパンティを買い、庭の草むしりをしている日記は、あまりにも自分の日常に似過ぎていて、それほど面白いものではなかったが、それもまた、『富士日記』の一面なのだろう。

読書会の初めに、参加者の皆さんが最近読んだ本や映画、などついて、一言言って下さるのも良かった。この場で、その存在を知った本も多かった。オンラインだから直接お会いしたことが無いのに、なぜか近しい感じで、最終回はちょっとした卒業式のようだった。

双子のライオン堂さん、岸波さん、ご一緒させていただいた皆様、本当にありがとうございました。

最終回前日に、娘である武田花さんが72歳で亡くなった。元気な子ども時代から、愛犬との別れを堪えている姿、父親とやり合う反抗期、自立しようとする時期、老いてきた両親にそれとなく寄り添うところまでを見せてくれた花さんが亡くなり、『富士日記』が永遠に完結してしまった、という思いがした。

心よりご冥福をお祈りいたします。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?