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小説「フルムーンハウスの今夜のごはん」【第7章】リノベーション

第7章 リノベーション


1

 耕平は今、大宮の実家の茶の間にいる。本日のミーティングの出席者は、健斗と直樹、そして耕平だ。和江は上機嫌でお茶などを用意している。
 「ボクが前に働いてた下北沢の美容室のお客さんで、店舗設計の会社の社長さんがいるんですよ」
 直樹は今日も小鹿のような顔で話す。最近髪の色を少し暗くしたので、ますますバンビのようである。
「井上さんって人なんですけど、すごくセンスが良いんですよね。レストランとかカフェとか、飲食系の店舗に強いらしくって」
 美容師というのは案外顔が広い。客からの情報量も多いようだ。
 直樹が手元のタブレットで開いて見せたサイトには、なるほど良い感じの店舗の施工例が多く掲載されている。
「じゃあ、近いうちに一度、その井上さんって人に来てもらって、まず現場を見てもらうことにしよう。その前にこっちの方でも、一応のコンセプトをまとめておかなくちゃな」
 耕平はすっかりディレクターの気分である。
 「やっぱ、落ち着く感じがいいっすよね。アンティーク風のソファ席とかつくって、まったりできる雰囲気で」
 健斗が言うと、バンビがすぐに反応する。
「あ、下北辺りにはよくありますよ、そういう感じのカフェ。癒されますよねぇ」
「いやいや、ダメなんだよ、まさにそういうのが」
 耕平は若者たちを制して、にわか知識をひけらかす。
「客がくつろいで長居しすぎると、回転率が下がって商売にならないんだから。椅子なんか、ちょっと硬くて座りづらいくらいの方が、客の回転速くていいだろ」
「あら、それじゃ腰が痛くなって、私は困るわ」
 すっかりチームの一員気取りの和江が、横から口を挟む。開店したら、一日中カフェに居座るつもりだろうか。
 「コンセプトは、『古民家風カフェ』だな」
 健斗が顎を擦りながら言う。
「あら、古民家なんていうほど古くないわよ、この家」
「いや、ばあちゃん、あくまで『古民家ふう』だから」
「そういえば、この家って、築どれくらいなんですか」
 バンビが訊く。
「確か、俺が中学に入学する時じゃなかったっけ? 新築でここに越してきたのは」
 耕平は和江の顔を見ながら言う。
「だから、築四十七年ってとこじゃないか。一~二回手入れはしてるけどな」
「え~っ、ほとんど五十年前ってことじゃないですか。半世紀ですよ? それってほぼ古民家って呼んでいいんじゃないですか」
 20代の人間にとっては、五十年前など太古の昔だ。
 とりあえずその日は、店の大雑把なイメージがまとまった。町中にいきなり明るい白壁の、見るからに洒落た店をつくって浮き立つよりも、古い家屋と周りの風景に溶け込むような、外観も内装も落ち着いたレトロな雰囲気がいいだろうと、大まかな路線だけが決まった。

 「望月さん、最近妙にイキイキしてませんか? 何だか髪型もバッチリだし」
 隣の席の鈴木が言う。
「ん? そうかな」と適当に返すが、もちろん悪い気はしない。それは耕平も自覚していることだ。この頃の自分は溌剌としている。還暦を間近に控えて、人間その気になればこうも意欲的になれるのかと、自分の変わりように驚いているところだ。
 例えば三十年前の自分がこんなふうにエネルギッシュであったなら、きっと今頃はもっと上の役職に就いていたんだろう。自分は、ほんとうに興味のないことには一生懸命になれない人間だったのだ。今更気づいた。
 満60歳となる今年の八月末で退職すると、会社には正式に伝えてある。
「望月さん、退職後はどうするんですか~」
 50手前の社員がからかい半分で訊いてくる。
「悠々自適。しばらくはのんびりするよ」
 耕平は、定年退職を控えた数多のサラリーマンがかつて言ってきたような台詞を口にする。もしここで迂闊に「実はカフェを開くんだ」などと言おうものなら、たちまち噂になってしまう。陰で嘲笑するような奴等だってきっといる。ここは黙っているに限る。
 しかし最近、我ながらよく勉強しているなと、耕平は自分に感心している。先日は池袋のJ堂書店まで出かけて、カフェ経営に関する雑誌や書籍を何冊か購入してきた。
 こんなにも多くの関連本が出版されているということは、日本中にカフェを開きたい人間がそれだけ存在するということか。そこで実際に夢を実現する人はどれくらいいるんだろう。さらに経営に成功する奴はどれくらい残るのか。
 頭の中に立ち込める灰色の雲を振り払いながら、耕平は考える。
 いや、自分は違う。珈琲好きが自宅でカフェを開業しようと甘い夢を描いているのとは違う。一時的にせよ今注目を浴びているあんどうパンの販路を拡大し、新たなビジネスモデルを構築しようとしているのだ。

 しかしふと、不安になる瞬間もある。
 「なあ、俺ってあと何年働けると思う?」
 潤子と二人の夕餉の後に訊いてみる。
「開いたお店で、ってこと? どうかなぁ……。でも身体丈夫だし、今のところ健康だし、足腰が痛いとか言ってるのも聞いたことないし。お店が続くようだったら、十年はいけるんじゃない? 身体鍛えて、この先見た目も小綺麗に維持できれば、十五年くらいは可能かもね」
 自分よりもはるかに客観的に、冷静に現実を見つめているなと、この頃耕平は妻を見てそう思う。
 「あと十年か十五年のために、大金使うのって馬鹿かな」
 耕平は潤子の顔を見ないまま呟く。弱気モードになっている。
 食卓の食べ終わった器を片付けながら、同じく耕平の顔を見ないまま潤子が答える。
「せっかくやりたいことが見つかったんだから、馬鹿でもいいからやってみればいいじゃない。あなたが途中でへたばったら、若者たちにそのまま譲ればいいだけよ」
「そうか。まあ、そうだな」
 それでもまた、心は波立つ。
 「でも今更なんだけどさ、俺のやろうとしてることって、『他人の褌で相撲を取る』ってやつかなって考えたりもするわけよ」
「そうは言っても、身内の褌でしょ。褌貸す方も喜んでるならそれでいいじゃない。お金はほとんどあなたが出すわけだし」
 やはり自分の妻は、かつて思っていた以上に男前である。
 「あの辺りだったらお洒落な若者狙うより、手頃な価格設定で近所の高齢者の常連つくるほうが長続きしそうな気がするなぁ。もともと儲けることが目的じゃないのよね」
「高齢者カフェか? じゃあ俺、婆さんたちのアイドルになっちゃうかもね」
「アイドルはナオ君でしょ。お婆さんは若い男の子が好きなのよ」
 笑いながらまとめた食器をキッチンに運ぶ潤子の後ろ姿を見ると、どことなく以前の妻とは違って見えた。視線を上下に動かして確認すると、ふくらはぎの筋肉が浮き上がり、足首が締まっているように見える。そういえば背筋も伸びてやたらと姿勢が良い。
 「潤子、何したの?」
「え、何のこと? 私どうかした?」
「いや、なんとなくスタイルが変わったような気がして」
「あれ、言ってなかったっけ? 私最近、ジムで鍛えてるのよ」
 潤子は含み笑いをしながら言う。
 長年夫婦をしていても、知らないことばかりだ。


2

 井上は今日もカッコいい。
 直樹から紹介された井上は、店舗設計を手掛ける「デザインスタジオQ」の代表だ。耕平より一回りほど若い、爽やかで誠実そうな男である。特別にイケメンというわけではないのに、シャープに整えられた髭も、さりげなくカジュアルなのに上質さの漂うファッションも、服の上からも分かる逞しい大胸筋も、耕平には何もかもが新鮮でカッコよく見えた。
 思い返してみても耕平の周りには、一年中紺色や鼠色のスーツを着た地味な男達しかいない。井上のように黒のタートルネックを着ているだけで色気の滲み出るような男などと、直に接する機会もなかったのだ。
 この間は井上の真似をして、幾分細身の黒いニットを買ってみた。すると腹が目立つことに気がついて、少し身体を鍛えなくてはと思い始めた。退職したら自分も髭を生やしてみようかと、最近密かに考えている。
 先日井上から、カフェの外観と店内のパース画のラフスケッチを見せられた。そこには実家の玄関の一部や居間の柱、古臭い窓などをそのまま活かした、懐かしい昭和の雰囲気のカフェ空間が描かれていた。
 「わぁ、すごい。さすが井上さん。カッコいいです!」
 直樹が嬉しそうに井上を見つめる。
「おぉ、いいですねぇ。やっぱりこうして形にして見せてもらうと、一気にイメージが膨らみますね」
 耕平はすっかり興奮している。健斗だけがしらけた表情で三人を見つめていた。
 「使える物は残して、できるだけ活かせたらって思うんです。水周りも、今のあちらの場所に厨房をもってくることで、工事費も抑えられますよ」
 井上はそう言って、茶の間の隣の台所を指す。
 そうか、この辺りで俺はイートインメニューを調理するのか。耕平の中の漠然としたイメージが、立体感を帯びて形になってくる。
 「井上さん、ココなんですけどね。ワンボックスで運んだパンを、この駐車スペースから厨房まで搬入するつもりなんですよ。だから動線考えると、この辺に出入口作ったほうがいいかなって思うんですけど、どうでしょうね」
 耕平が図面を指して意見する。
「あぁ、なるほど。望月さん、よく勉強していらっしゃいますね。確かにおっしゃるとおりです。この次、もっと正確な図面をお持ちする時には、きちんとその点も反映しておきます」
 井上の低音ヴォイスでそう褒められると、耕平の自尊心は急カーヴで上昇する。両頬がうっすらと赤らんだような気がした。
 それにしても、やるべきことは山ほどある。選ぶこと、決めること。申請する、講習を受ける、練習する。分担する、管理する、集客する。笑顔をつくる。数え上げればキリがない。
 店名も大事だ。
「自分の所でパンも焼かないんだから、『ブーランジェリ・アン・ドゥ・トロワ』はおこがましいよな」
「さすがにそれはないっすね」
 と、健斗も苦笑する。
「オーナーは耕平さんなんだから、耕平さんの好きな名前に決めちゃっていいですよ」
 直樹がそう言って白い歯を見せる。
 
 「そういえば、お店の名前は決まったの?」
 夕飯を食べ終えた潤子が言う。最近夫婦の話題といえば、カフェの進捗状況がメインだ。
「まだ決まんないんだよ。そろそろ決めないとまずいな。何かいい案ないか?」
 潤子はしばらく考えてから、
「『コーヘイ's キッチン』なんてどう?」
 と言ってニヤリと笑った。
「やめてくれ、恥ずかしい」
 耕平は眉間に皺を寄せて顔を横に振る。
 「そうだ、アローアイランド方式よ。望月は満月だから、『フルムーン・カフェ』とか」
「お、悪くないね。でも横文字のイメージじゃないんだなぁ。レトロな和っぽい雰囲気でいきたいんだよな」
 アローアイランド方式が何なのか分からないまま耕平は応える。
 「じゃ、『満月堂』でどう?」
「何だか和菓子屋みたいだな。……あ、『満月亭』ってのはどうだ」
「あら、いいんじゃない、いいわよ、それ。雰囲気出そう」
 耕平は近くにあったメモ用紙に、ボールペンで「満月亭」と綴ってみる。
 うん、悪くない。よし、決まったぞ。
 早速明日井上に伝えようと、耕平は遠足前夜の小学生のようにワクワクした。


3

 耕平は毎週土曜日の早朝から、あんどうパンを訪れている。一通りパン作りの基礎を学ばせてもらい、それから惣菜パンの作り方のコツなども教わっているのだ。
 調理器具や諸々の洗い物だってもちろんする。この先自分の厨房の中を、スピーディに動き、テキパキと調理しなければならない。歳をとったぶん、身体に覚えさせるのは時間がかかる。
 厨房における直樹の動きはすこぶる滑らかだ。細い指先でパン生地をクルクルと型に巻きつけ、器用にコロネを成形している。なるほど、さすがに元美容師である。弓子が絶賛するわけだ。
 業務用の大型ベーカリーオーブンから焼き上がったパンを取り出す健斗は、厳しい表情をしている。パン屋に生まれ育った若者は、いよいよ本気で家業を継ぐ覚悟ができたように見える。
 若者二人は今後、あんどうパンとカフェの仕事を掛け持ちする形となる。早朝はパンの製造を、その後パンを搬入し、カフェ業務に励む。若いから何とかなるだろう。
 先日弓子に、カフェ開店に伴ってあんどうパンの休業日を変更してくれないかと願い出た。義父の代からずっと日曜だったという休業日を、月曜日にずらしてほしいのだ。あんどうパンが休みでは、そもそもカフェの営業が成り立たない。
 「パン屋はともかく、今どきカフェが日曜休業じゃ話にならないでしょ」
「日曜に営業したら、インスタ見て来る客がもっと増えますよ」
 健斗と直樹は賛成である。後は弓子達を説得できるかと案じていたが、
「ずっと前からほんとはそうしたかったのよ。だって日曜休みだと滅多なことじゃ医者にもかかれないんだもん。これからは私達も歳とる一方だし。お義母さん達の通院の付き添いだってしやすくなるから有難いわよ」
 と、あっさり了承してくれた。何だかいろんなことが妙に上手く運んでいる。もしかしたら自分に今、人生最大のツキが巡ってきたのではないか。耕平はふとそんな予感に襲われ身震いした。

 「耕平さん、さっき井上さんから連絡ありました。耕平さんの携帯繋がらなかったからって、ボクに電話あって。井上さん夕方に、こっちにいらっしゃるそうですよ」
「え、何しに?」
「あんどうパンの商品とか店の雰囲気とか、一度確認しておきたいからって」
「ふぅん、なるほどね」
 調理器具の片付けをしながら、直樹と会話していた。
 「とかいって、井上のヤツ、未練たらたらでナオに逢いに来るんじゃねぇの」
 健斗が暗い眼で直樹を見つめる。
「え、何それ……。ケンさん、何言ってるの」
「ナオ、井上ってオマエの元カレなんだろ」
「え~、そんなことないですよ。誤解ですよ」
「いや、見てりゃ分かるって。そりゃ社長はカッコいいよな。金持ってそうだし」
 健斗の猛烈な嫉妬だ。
 「ケンさん、ひどい。ケンさんだって、さっき来たお客さん、誰なの、アレ。『ケント~』とか馴れ馴れしく呼んじゃって」
「なんだよ。アレは俺のバンド時代のファンの女の子だよ。インスタで俺のこと見つけて遊びに来てくれただけだろ」
「あの子、ケンさんにすごい色眼使ってたじゃない。胸の目立つ服なんか着ちゃって。ボク、見てたからね。ケンさんだってデレデレしてた」
「興味ね~よ、あんな女」
 「おいおい、ちょっとキミ達、ここで痴話喧嘩はやめてくれ」
 耕平は呆れて仲裁に入った。
「健斗、それはキミの邪推だ。井上さんはバツイチだけど、別れたのは同い年の女性だよ。それに今、結婚するつもりで同居してる女性がいるって聞いたぞ」
 耕平は、先日井上と雑談した時に得た情報を話す。
「ほ~らね! だから違うって言ったじゃない」
 直樹は頬を赤らめて口をすぼめる。
 「ちょっとアンタ達、何騒いでるの。ほら、またお客さん来たわよ、アンタ達のファン」
 弓子が店内から声を掛けてきた。店の外から、若い女性達の声が聞こえる。
 「あ、ココだココだ。わぁ~ヤバい、超エモい」
 店に入る前からスマホのカメラを向けて、あんどうパンの古臭い看板を撮影している。店のドアを開けると、チャリチャリンとベルの音が鳴った。
 「いらっしゃいませ~」
 直樹がアイドルのような笑みを貼りつけて店内に躍り出た。
「いらっしゃい」
 続けて健斗が渋めの表情で顔を出す。二人が揃うと、女の子達の黄色い歓声が上がった。
 20歳前後に見える二人の女の子は、ナオ&ケント、「ナオケン」とひとしきり写真を撮ってから、その日残っていたあんどうなつや菓子パンを全部買っていった。ありがたいことである。

 それから一時間後に、井上が店頭に姿を現した。
「あ~、パンは売り切れちゃいましたか。もうちょっと早く来たかったけど間に合わなかった~」
 と残念がった。
 「いいお店ですね。永く地元で愛されてる店っていうのが、よく伝わってきます。『あんどうパン』の、このロゴのレトロな感じがたまりませんよね」
 井上はそう言って、店の外観や店内の様子をカメラに収めていた。
 「この雰囲気、大事に遺したいですね。永く愛されるカフェを目指して、私も精一杯お手伝いしますので、よろしくお願いします。一緒にいいお店つくりましょう」
 井上は口角を上げて眼を細め、クシャリと笑顔をつくって右手を差し出した。
「よろしくお願いしま~す!」
 真っ先に井上の手を握り返す直樹を一瞬横目で睨んでから、健斗が照れたように続けて握手した。
 「こちらこそ、最後までよろしくお願いします」
 耕平はそう言って、井上の掌を強く握り返した。最後にこんなふうに人と握手をしたのはいつだったか。世界を股にかけて働くビジネスマンになったような心持ちだった。
 
 その晩耕平は、自宅の洗面所の鏡の自分に笑いかけてみた。何時間か前に見た井上の笑顔が焼きついている。いいよな、あの笑いかた。
 そうだ。口角をキューッと持ち上げて、それから両眼を三日月型にして、顔をクシャリとさせるんだ。そして最後に歯を見せる。
 そう、こんな感じだ。悪くない。人の心を捉える笑顔のコツを掴んだぞ。耕平は鏡の中で何度も笑顔を繰り返す。
 ふと気配を感じて後ろを振り返ると、畳んで重ねたタオルを抱えた潤子が、腰を折ったまま笑いを堪えて震えていた。見られた。洗面所のドアを開けていたのがまずかった。
「わ、笑うな。接客の練習だよっ」


                        
                        ……第8章につづく……


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