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小説「フルムーンハウスの今夜のごはん」【第5章】チョコレートコロネ

第5章 チョコレートコロネ


1

 土曜日の早朝、耕平は電車を乗り継いで「あんどうパン」に向かっている。
 朝の六時半過ぎ、弓子からの着信で目が覚めた。和江の身に何かあったのかと、耕平は一瞬身構えた。
 「兄さん、朝っぱらからごめん! ねえ、半日でいいからさ、今日うちの店手伝って。お願い。お願いします!」
 スマートフォン越しに唾が飛んできそうな勢いで弓子が言う。パン屋の朝は早い。
 弓子の義父の入院は長引いている。そして義母には今日、病院での検査予約が入っているのだが、夕べからどうも義母の体調がよろしくない。後で弘幸が車で送っていく必要がありそうだ。
 頼みの綱の健斗は昨夕出かけて一晩飲み明かし、さっき帰宅したばかりだ。酒臭い鼾をかいて寝ていて使い物になりそうにない。
 弓子は必死に状況を説明する。予定が狂ったうえに息子がアテにならず、忙しい土曜日に明らかに戦力不足ということのようだ。あの弓子が耕平に対して「お願いします」とまで言うのだから、相当に切羽詰まっているのだろう。
 「俺なんか、役に立たないよ? かえって邪魔になるだけかもよ」
 と謙遜してみると、
「いないよりマシ。ずっとマシ! さすがに私一人じゃ手が回らないのよ、お願い!」
 嬉しいような腹立たしいようなことを言われた。人に頼まれれば基本、断れないタイプの男である。耕平はトーストとアイスコーヒーを流し込んで身支度を始めた。
 「あら、早いのね。どこか出かけるの」
 起きてきたばかりの潤子が、生気のない顔を耕平に向ける。
「半日でいいから手伝ってくれって、弓子に泣きつかれた」
「え、何を? パン屋を?」
「うん。そうらしい」
「ふ~~ん……。なんか大変そうね」
 夫婦の会話はこれで終わった。愛が足りないのではない。言葉が足りないのだ、圧倒的に。

 あんどうパンに到着すると、ちょうど弘幸が車を出そうとしているところだった。傍には顔色の悪い、ずんぐりとした高齢女性が立っている。弓子の義母だ。なるほど具合が悪そうだ。
 「あっ、耕平さん、ありがとうございます。すみませんねぇ、健斗が役立たずで。情けないです。お休みの日に、ほんとうに申し訳ないです」
 腰の低い弘幸の奥から、すぐに弓子が顔を出してきた。
「健斗もここのところずっと頑張ってたから、久しぶりに羽目外しちゃったのよね。今日、こんなことになるなんて分かってなかったわけだし」
 母親は常にダメ息子の味方である。
 「じゃ、成り行きで連絡入れるから」
 弘幸は弓子にそう言い残し、耕平に会釈をしてから車を出発させた。

 「さあ兄さん。手伝ってもらうことはたくさんあるのよ。もうすぐ開店なんだから」
 耕平は弓子から渡された作業服と帽子を身に着ける。少し気恥ずかしいが、意外と悪くない。キャスケット風の衛生帽子など、ぴったりとフィットして似合いすぎるほどだ。
 弓子がつくった見本どおり耕平は、焼きあがって切れ目の入ったコッペパンに次々と焼きそばを挟み込んでいった。焼きそばパンの次は卵パンだ。耕平は黙々と、ゆで卵のペーストを詰め込み続けた。
 出来上がったパンを慎重に業務用ラップでくるみ、トレイに載せて店内の陳列棚の定位置に並べていく。食パンもロールパンも、アンパンもクリームパンも、すでにズラリと並んでいる。おお、看板商品の「あんどうなつ」も、とっくに整列しているではないか。開店前からすでにこんなに働いているのかと、耕平は素直に驚き、弓子夫婦のその勤勉さに頭の下がるような思いだった。
 「兄さん、なかなか器用ね。筋がいいわよ。じゃあ、これもやってもらおうかな」
 弓子におだてられ、耕平も悪い気はしなかった。弓子の真似をして、焼きあがったコロネの中に、絞り袋でチョコクリームをにゅるりと注入していく。これは快感である。
「あら上手い! 上出来よ!」
 耕平はチョココロネの仕上げに夢中になった。もうずいぶん長いこと、人から褒められた記憶もないのだ。やる気が倍増した。
 「いらっしゃいませ~」
 弓子が一段高い声を張り上げる。開店後一人目の客だ。弓子は作業の手を止め、レジにスタンバイする。
「今日は暑くなりそうねぇ。いつまで残暑が続くんだか、嫌になっちゃうわよ」
 70代くらいの女性客は古くからの常連らしく、弓子に人懐っこい笑顔を向けて話しかけている。
「弓ちゃん、今日はチョココロネないの?」
「あ、ありますよ。ちょっと待ってくださいね。ねえ、コロネ出してくれる~」
 弓子に促され、耕平は出来たてのチョコレートコロネを店内に運んだ。「あら、新しいスタッフさん?」
 女性客は遠慮なく耕平を眺めまわす。
「私の兄なんですよ。今日は助っ人として飛び入り参加」
 弓子はそう言って朗らかに笑った。
 「私、ここのチョココロネが大好きでねぇ。今日は2個もらおうかな」
 耕平はトングでコロネを2個、レジに置かれたトレイに載せた。
 俺のつくったチョココロネが早速売れた。
 穴にクリームを絞っただけだというのに、耕平は小さな達成感すら覚えた。自分が作ったものに人が喜んで対価を払うという、かつて味わったことのない種類の喜びだった。
 

2

 経理部の江藤信夫が亡くなったという情報は、総務部の耕平の耳にもすぐに届いた。
「望月さん、聞きましたか、江藤さんのこと」
 隣の席の鈴木が言う。
「聞いたよ。驚いたな。まだ俺より若い、確か50代半ばだろ」
「そうですよ。奥さんなんて、まだアラフォーですよ」
 婚活サイトで知り合った女性と結婚するそうだと、三年前、江藤の噂は社内で大いに盛り上がった。江藤にとって生まれて初めての彼女、それも一回り以上年下の綺麗な女性だということで、財産目当てではと、当時はやっかみ半分から良からぬ推測もされた。
 幸せの絶頂だったはずの江藤だが、それもわずか二年半しか続かなかった。江藤は半年ほど前から体調を崩し、膵臓がんが判った時にはすでに手遅れだったという。
 「なんか、せつないですよねぇ。江藤さん、あんなに嬉しそうだったのになぁ……」
 鈴木は薄い胸の前で腕組みをしながら、剃り残しの髭が目立つ顎を突き上げて言う。
「でも、最後のほうに夢叶って、甘い結婚生活味わえて、もしかしたら江藤さん、すっごく幸せだったのかもしれないなぁ」
 鈴木は独り言のように呟く。
「まあ、そうだといいよな」
 現実の結婚生活はそんなに甘いものじゃあないぞと、耕平は付け足したかったがやめておいた。もしかしたら江藤の晩年は本当に、完熟果実の濃縮果汁のようだったかもしれないのだ。

 「そういえば鈴木君、その後婚活はどうしたの。マッチングアプリってやつは」
「あ、僕ですか。何度かマッチングしてデートしたんですけど……、結局いつもふられちゃうんですよねぇ。現実は厳しいです」
 鈴木はそれ以上ないだろうというくらい、情けない表情でそう言った。自己肯定感が底を突いている模様だ。
 それにしても……、と耕平は考える。人生、一寸先は闇だ。何が起こるか分からない。健康だけが取り柄の自分にだって、アクシデントはいつ何時、襲いかかるか分からない。呆気なく逝った父の哲男だって、トイレで倒れたその瞬間まできっと、当たり前の明日を信じていたに違いないのだ。

 耕平は仕事帰りに、会社近くのパン屋に立ち寄った。最近オープンしたばかりの、店構えも店名ロゴも今風に小洒落たパン屋だ。先日弓子のパン屋を手伝って以来、耕平はよそのパン屋が気になって仕方ない。
 閉店時刻も近いとあって、棚には少しばかりの商品が売れ残っているだけだった。何やら難しいドイツ語風のカタカナ表記ばかりで、どんなパンなんだかさっぱり分からないうえに値段も高い。
 なんだ、この店にチョココロネはないんだな。
 耕平はすっかり、自分がコロネ職人にでもなったような気でいる。「いらっしゃいませ」と20代の女性スタッフに声を掛けられた手前、仕方なく硬そうなパンを2つだけ買って、耕平は店を出た。

 あんどうパンでの作業を手伝ったあの日以来、耕平の心にはさざ波が立ち続けている。来年は定年なのだ。できれば65までは、今の会社で働かせてもらうつもりでいる。早くリタイアしたところで、耕平にはやりたいこともやるべきこともない。これと言った趣味もなければ向学心もない。その後のことは、退職してから考えればいい。今まで漠然とそう思ってきた。しかし今、耕平は微かに揺れている。
 自分とはまるで違う生活、まるで違う仕事、まるきり異なる日々の営み。朝の四時からスタートして、毎日毎日パンをこね、パンを焼き、パンを売る。それを喜んで買いに来る人がいる。労働によって物が生まれ、それに対価が払われる。そのシンプルな幸せ。
 いい歳をして何を今さらと思う。今となっては自分には、到底真似のできない生活だし、真似をしたいわけでもない。他人の人生を単純に羨むほど、さすがにそこまで耕平は青くはない。それでもひょっとしたらそういった種類の労働、そういう暮らし、そんなような人生のほうが、もしかしたら自分には合っていたのではないか。
 何も考えず、自分の父と同様にサラリーマンを選択した耕平だった。ざっくりと括れば二流とされる大学を出て、中堅企業と呼ばれるような会社に就職した。営業部では目立った成果も出せず、30代の初めに総務部に異動となった。
 人当たりは悪くないが、弁が立つわけでもない。他人を押しのけて上に昇ろうという野心もなかった自分は、そうだ、もっと職人的な仕事を選んでも良かったのではないか。考えてみればそんな選択肢だって、なかったわけではないのだ。
 ずいぶん昔にテレビで観た、定年後に蕎麦打ちを始めた還暦男の短いドキュメンタリーが、妙に耕平の記憶に残っている。年寄りの悪足搔きだと、40代の頃の自分は冷ややかな眼で見つめたはずだ。
 男はまるで何かに憑かれたように、捏ね鉢の中の蕎麦粉と格闘していた。がむしゃらに老いと闘っているようで、当時はその姿を滑稽にすら感じたものだった。しかし今の自分なら解る。解るような気がする。あの男が、本当は何と闘っていたのか。
 耕平の頭の中には、蕎麦打ちの男に代わり、工房でパン生地を捏ねている自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。実際にはまだ一度も、生のパン生地に触れたことすらないというのに。


3

 パン作りを手伝った日から二週間後の土曜日、耕平はさり気ないふうを装って、午前中から再びあんどうパンを訪れた。「あらどうしたの」と弓子に訊かれたら、「実家に置き忘れた物を取りに行くついでに、様子を見にちょっと寄ってみた」と答えるつもりだった。ひょっとしたら、「それなら手伝って」などと言われて何かしらの作業に関われるかもと、こっそりと期待していたのだ。
 「いらっしゃいませ~」
 あんどうパンの扉を開ける耕平に、若い男の声と笑顔が向けられた。金髪で細身の今風の青年だ。洒落たダークブラウンのキャスケットとエプロンを着け、レジの前に立って接客をしている。古臭いあんどうパンが一瞬、垢抜けた都会の店のように見えた。
 「こちら焼きたてですので、袋の口少し開けておきますね。はい、お待たせいたしました。いつもありがとうございます。またお待ちしておりま~す」
 パンの袋を提げた客が、感じの良い接客に笑顔を見せながら店を出て行く。バイトを雇う余裕などないと、いつも弓子が言っていたが。誰だ、あの金髪青年は。
 「え~っと、キミはバイトさんかな」
 耕平が青年に声をかけると、厨房からひょいと弓子が顔を出した。
「あら、どうしたの兄さん、急に」
 耕平は予定通りの返事をしながらつくり笑いをした。
 「兄さん、ちょっといい?」
 弓子は店の外に耕平を押し出した。何か話があるようだ。
「あの子ね、健斗の恋人なのよ。一昨日から健斗と一緒に、お母さんの家で暮らしてるの」
「何? それどういう意味」
 耕平はワケが分からず混乱した。弓子は店の入り口脇に立ち、早口で事の顛末を説明する。弓子の話を整理すると、つまりこうだ。
 先日退院した弓子の義父は、すっかり体力が落ちてしまった。義母は自身の不調もありながら、義父の世話に追われている。二人はついにパン屋の仕事を退くことになった。その後あんどうパンは弘幸と弓子、健斗の三人でどうにか切り盛りしていたが、先日健斗が、突然若い男を家に連れてきた。
 その華奢な身体つきの金髪青年の肩を抱き、「俺の彼女」と健斗は皆に紹介したらしい。弓子たちは一瞬呆気にとられ、意味を理解するのに時間がかかったという。
 ワケあって美容師を辞めたばかりの金髪青年を、「俺と一緒にパン屋を手伝う、その代わり実家に住まわせてくれ」と健斗は願い出た。しかし弓子の家は狭い。一階には高齢の義両親が暮らし、二階には自分たち家族のための二間しかない。
 「いいかげんにしろ!」と怒り出した義父を宥めるため、「そうだ、あなたたち、望月のおばあちゃんの家に行きなさい」と、弓子が慌てて提案した。若者二人はとりあえず、和江の住まいに移り住むことになった。
 「何かよく分かんないけど、妙な展開になってるな」
 耕平はそう言いながら店内に戻り、和江への手土産に菓子パンをいくつか買った。手ぶらでこの場を去るのも恰好がつかない。
 耕平は自分が健斗の伯父であると、レジの金髪青年に名乗った。
「はじめまして。ボク、沢口直樹です。ナオって呼んでください。よろしくお願いします」
 直樹は綺麗な歯並びを見せて微笑んだ。
 アイドルかっ! と突っ込みたかったが、もちろんやめておいた。
 小さな頭、長い首、小鹿のような甘い顔立ち。これが健斗の「彼女」か。突然のことで安藤家の人々は皆、心の整理がついていないことだろう。

 「お兄ちゃん、いらっしゃい」
 和江が満面の笑みで耕平を迎える。
「今日はどうしたの」
「いや、ここに俺の荷物、置きっぱなしにしてただろ。取りに来ようと思って」
「あら、そうなの。言ってくれたら送ってあげたのに」
「いや、いいんだよ。コレ、お土産ね」
 耕平は靴を脱ぎながら、三和土にいくつか大きなスニーカーが並んでいるのを見た。彼等の物だろう。
 「弓子のところに寄ってきたの? じゃ、ナオ君に会った?」
「会った会った。なに、健斗と彼をここに住まわせてるんだって?」
「そうそう、一昨日からね」
 和江は妙に浮かれた様子で言う。
「そりゃあ私だって、はじめはびっくりしたのよ。健ちゃんがそういうふうだったなんて知らなかったし。でもねぇ、それがいい子なのよ、ナオ君って子が」
 26歳の青年直樹は、あっという間に和江の心を捉えたようだ。「優しくて気が利いていてセンスがいい」らしい直樹は早速昨日、和江の髪をカットしてくれたのだという。
「ほら、いい感じでしょう? 『十歳くらい若返った』って、お隣の佐々木さんにも褒められちゃった」
 和江は満足げに襟足の髪を撫でる。確かに以前よりずっと垢抜けて見えた。
 おまけに昨晩は健斗と直樹の二人が台所に立って、美味しい夕飯をつくってくれたのだという。
 「うちはねぇ、ほら、部屋ならいくつも空いてるじゃない。健ちゃんたち二人くらい、楽に住めるもの」
 和江はもっと頭が固いかと思っていたが、「そういうふう」と流せるほど、やすやすと多様性を受け入れているように見える。あるいは単純に、若い男たちに囲まれて久しぶりにはしゃいでいるだけだろうか。いずれにせよ、枯れかけたものよりも鮮度の高いものに心を吸い寄せられるのが人の常だ。
 「ナオ君がね、『この家いいですねぇ、この場所いいですねぇ』って言うのよ。あの子、カフェを開くのが夢なんですって。この辺りの駅からの距離感が、カフェの立地的には最高だって」
 和江はまるで自分自身が褒められたかのように喜んでいる。
「この辺も昔は田舎だったよな。今じゃすっかり都会ヅラしてるけど」
 駅から徒歩数分、その昔実家周辺は何の取柄もない住宅地であったが、最近は駅までの途中にポツポツと、小洒落た店もできている。
 「何て言うんだっけ、パン屋と喫茶店が一緒になってるようなお店。お店の中でコーヒー飲めて一緒にパンとか食べられる……」
「ベーカーリーカフェ、か?」
「そうそう、それそれ。『健ちゃんたち、ここにそういうお店作ってくれたらいいのに』って、私言ったのよ。そしたら私、いつもそこでお昼ご飯食べるわ」
 和江は夢見る少女のように声を弾ませて言う。
「立地がどうのこうのっていう以前に、まず金をどうするかだろ」
 あの二人に貯金があるようには見えないし、そもそもすぐに仕事を辞めるような似た者同士二人で、店の経営が続けられるのかも怪しいものだ。そこまで商売は甘くない。
 そうは思いつつも耕平は、二人の若さを羨ましく思った。おそらく深く思い詰めたわけでもないままに安易に夢を語れるような、年齢以上に未成熟な若さを。

 その晩風呂上りに自宅でビールを呑んでいた耕平は、食卓の上に出たままの朝刊に重なった、裏白の折り込みチラシを手に取った。そして近くにあったボールペンでおもむろにスケッチを始めた。頭の中に湧きあがるイメージを、図にしてみようと思いついたのだ。
 それは、大宮の実家の大胆なリノベーション案であった。
 今の住まいの形を大雑把に描き、二階部分はそのまま、一階のこの辺りを拡張して、ここがすべて店舗部分。カフェスペースと、小さな厨房。一からここでパンを製造するとなると、金も人手もかかりすぎる、あんどうパンから焼きたてを搬入すればいい。イートインの簡単なカフェメニューなら、小さな厨房で対応できる。それから一階の端っこに、和江の居住スペースを確保しよう。今後足が弱っても、一階ならばなんとかなる。車一台分の駐車スペースも必要か。
 耕平はいっとき妄想の世界に没入していたが、突然強い眠気に襲われてたまらずソファに横たわり、すぐに寝息をたて始めた。寝つきの良さだけは誰にも負けない。



……第6章につづく……



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