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小説「フルムーンハウスの今夜のごはん」【第6章】私は波止場

第6章 私は波止場


1

 今宵潤子は湯舟の中で、へそ周りのやわらかい肉を無意識に弄びながら、昼間見た典子の顔を想い出していた。
 入居中のホームの原則にのっとり、先月典子はようやく一人用の居室に移動した。現実を受け入れたのか以前のように拒むことなく、案外すんなり応じてくれた。
 稔の死後、潤子がホームに出向く回数は明らかに減った。理由は明白だった。行く甲斐がないからだ。典子は大抵の場合、娘ではなく入居者の誰かと時間を過ごすことを選んだので、稔のいなくなったホームで潤子は、所在のない時間を過ごすばかりだった。本人が淋しくないならば自分の出番もないなと、脚が遠のくのは自然の流れだろう。
 本日潤子が久しぶりにホームを訪ねると、広い廊下の憩いスペースに置かれたソファに、典子が一人、ぽつねんと座っていた。小さな老女が醸し出す暗く頑なな雰囲気に、一瞬それが自分の母親であると分からなかった。
 「お母さん、久しぶり。調子はどう?」
 潤子が隣に座って声をかけると、眉間に皺を寄せた典子はしばらく無言のまま、まじまじと潤子の顔を見つめて「ああ」とだけ言った。顔を忘れたわけではなさそうだったが、娘の訪問を喜ぶ様子もなく、ほとんど会話も弾まないまま、潤子は苦味だけを味わいながら短時間でホームを後にした。
 典子が自分を見つめた瞬間の、あのどんよりと濁った眼。そういえば典子は化粧もしていなかった。しばらく逢いに行かなかっただけの、そのわずかひと月ちょっとの間に、典子は一気に数段低いステージまで転がり落ちてしまったように感じる。いよいよ本格的に認知症を発症してしまったのだろうか。
 「私が死んだらマンションは早めに売却した方がいい」と稔に生前言われたことを、潤子は忘れたわけではない。しかしすでに機を逸したなと思う。現在典子と潤子二人で所有しているアローアイランドを売却する際には、典子の同意はもちろん、契約時の立会いも必要になる。所有者の一人が認知症となれば事は厄介だ。
 それでなくともアローアイランドを売却するには、きっとかなりのエネルギーが要るに違いなかった。普通の家族に3LDKの物件を売るのとは訳が違う。一棟買いともなると、相手は不動産投資家だ。
 典子が亡くなれば、どの道また死後の煩雑な手続きを一式、自分が引き受けることになる。税額の損得は分からないが、とりあえず売却はそれ以降に先延ばししよう。しかしそれが何年後のことなのか、十年先、五年先、一年先の未来が見えない。
 「ああ、面倒くさい……」
 潤子は湯の中でしみじみと、声に出して呟いてみた。そもそも潤子には、一人で不動産を売買した経験もないのだ。
 結婚当初から耕平は、潤子の家族の問題に介入する気が皆無の男だった。たとえば「アローアイランドはいくらで売れるか」と、もし自分が夫の立場であったなら、妻と共に、あるいは妻に代わって業者と交渉し、少しでも高値で売却できるよう努めるだろう。

 風呂から出てリビングに戻ると、つけっぱなしのテレビの前のソファで、耕平がうたた寝をしていた。三十三年連れ添った男の左右不揃いの鼻の穴を見つめながら、潤子は考える。金に執着がないのが耕平の美点でもあるが、やはりあまりにも不甲斐ない。出世しなかったのも無理はない。
 潤子はリモコンでテレビを消し、軽い鼾をかいて眠る耕平に「風邪ひくわよ」とだけ声を掛けた。テーブルの上に耕平が飲んで置いたままのビール缶を見つけ、潤子はほんの小さく舌打ちをする。近くにあったティシュを抜き取り、缶の下の水滴を拭うとその脇に、間取り図のようなものが描かれた一枚の紙を見つけた。
 それは近所のクリーニング店の、片面印刷のチラシだった。チラシの裏にはボールペンで描かれた何重もの線の他、カフェスペース、だの、母居室、だのと、意外に几帳面な文字が散らばっていた。耕平の文字に違いなかった。
「なに、コレ……」
 潤子はそう呟いて、テーブル脇のキャビネットの抽斗にとりあえずチラシをしまい、ビール缶と新聞紙を片付けてから寝室に向かった。
 

 「今日の晩飯、俺が何かつくろうか」
 土曜の午後、耕平がそんなことを言い出した。
「あら珍しい。どうかしたの? 嬉しいけど」
「ま、暇だしさ。料理覚えるのも悪くないよな」
「そうよ。これからの時代、男だって料理ができて当たり前。で、何つくってくれるの」
「お好み焼きか……、本格カレーか、ってとこだな」
「そういえば、しばらく私、カレー食べてないかも」
「じゃ、カレーに決まりだ」
 どっちにしても部屋にニオイが残るやつだなと思ったが、文句は言うまい。できることならこれからの人生、食事の支度はすべてお任せしたいのが潤子の本音なのだ。
 耕平はスマートフォンでカレーのレシピを検索しているようだ。メモ用紙に食材を書き出し、買い物リストを作っている。もう少し歳が若ければ、スマホにメモを残すのかもしれない。アナログが混在するのが潤子達の世代だ。
 ボールペンを走らせる耕平の手元を見て、潤子はふいに思い出した。
 「そうだ。ねえ、これってなに?」
 キャビネットの抽斗から、この間の晩にしまっておいた紙を取り出してテーブルに置いた。
「ああ、忘れてた。どこにあった、それ」
「どこって、テーブルの上よ。これ、どこかの設計図? うちじゃないわよね」
「いやいや、そんなんじゃなくってさ。この間オフクロから話聞いて、ちょっと思いつき半分で描いてみただけだよ」
「何の話? 何を思いついたの」
 どうしてこうも会話にならないのだろう。
「健斗がさ、最近彼女と一緒に住み始めたんだよ、オフクロの家に」
「え、健斗君、結婚したの? それで大宮のお義母さんの家に同居なの? 何それ、どうして」
「いや、結婚したんじゃなくって。彼女っていうのが、実は元美容師っていう男でさ。今弓子のところで一緒にパン屋手伝ってるんだと」
 まったくもって意味不明だが、潤子は黙って聴くことにした。
 「それでそのナオ君っていう子がすごく良い子だって、オフクロがすっかり気に入っちゃっててさ。健斗とナオ君があの場所にカフェ開きたいとか言ってるらしくて、オフクロがその気になって期待しちゃってるんだよ。まったく甘いよなぁ。カフェの開業夢見てる若者なんて、日本中でどれだけいるんだか」
 耕平は訳知り顔で苦笑して見せるが、潤子にはさっぱり話の流れが見えてこない。
 「それで、あなたはそのカフェと何か関係があるわけ?」
「……ないよ。別に彼等だってまだ本気でどうこうってわけじゃないだろうし。俺はちょっと面白そうだな~って思ってるだけ。住宅街に洒落たベーカリーカフェとかあったら、何となく楽しそうだろ」
「そこでパンも一から作るの?」
「それだと設備に金がかかりすぎるだろ。人手も要るし。だからさ、あんどうパンで焼いたパンを車でカフェに運んでさ、ほんの数分の距離だし。店内で食べられて持ち帰りもOK。あとは厨房でコッペパンサンドとか何種類か調理するんだよ。サラダくらいなら簡単に作れるだろうからランチセットにしてさ、カフェメニュー揃えて」
「えっ、そこまでもう具体的に話が進んでるの? っていうか、あなたがその店の開業とか運営とかに関わりたいってこと?」
「……いや、まだ何も。そういうわけじゃなくって、単なる俺の妄想」
「あっ、そう……」
 自分が気づいていなかっただけで、実は夫は大変な夢想家だったのだろうかと、潤子は新鮮に驚き、同時に少し呆れた。
 「素人が中途半端な店つくったら、そりゃダサいことになるけどさ、プロに頼んである程度金かけてカッコいい店つくったら、それなりに人は入ると思うんだよな。立地はいいし。賑やかになったらオフクロにも生き甲斐ができるだろうし」
 単なる妄想と言いながら、実はかなりその気になっているようだ。珍しく、耕平の眼がキラキラと輝いている。言葉も滑らかだ。オフクロではなく耕平自身が「生き甲斐」を求めて夢見ているのだろうと、誰が見ても分かるような表情だった。
 
 結婚当初から望月家の家計は、潤子がすべて管理をしている。自宅のローンは完済した。耕平の給料だけでやりくりするレベルの生活に、潤子はさほど不満も感じてこなかった。堅実な父親の価値観が、子供の頃から潤子に刷り込まれていたのである。
 「不勉強のまま株なんぞに手を出すな」「金融機関のカモになるな」と、生前稔はよく言った。「下手に欲を出して投資話にのってはいけない」「分不相応の暮らしをしてはいけない」。そんな禁止令のようなものが、自分の身体中の血管壁にこびりついているような気がすると潤子は思う。
 だからアローアイランドの家賃収入のほとんどは、大きく無駄遣いされることなく潤子の預貯金口座を潤しているのだった。稔の死後まとまった額の現金も相続した。有難いことこの上ないのだが、自分の稼ぎで貯めた金ではないことに、潤子はずっと後ろ暗い気持ちを抱いている。
 隠しているわけではないが訊かれたこともないので、潤子は耕平に自分の資産額を伝えたことがない。少し考えて計算してみれば想像もつきそうなものだが、まったく頓着しているようには見えない。不思議な男だなと時々思う。
 
 耕平が作ったその晩の「休日男子のスペシャルスパイスカレー」は美味しかった。
 「ここ何年間に食べたカレーの中で、憶えている限りで一番美味しい」
 と潤子が言うと、耕平は鼻の穴を膨らませ、必死に嬉しさを隠そうと多弁になった。
「やっぱりクミンが効いてるんだと思うよ。玉ねぎもかなり時間かけて炒めたしな。肉をやわらかくするために、実はビールも少し入ってるんだ」
 たったこれだけの褒め言葉でこんなにも喜ぶんだったら、結婚生活の初めから、もっと褒めて育てれば良かったのだ。そうすれば案外、家事にも育児にも進んで手を貸す夫になっていたのかもしれない。結婚三十三年、孫をもってからようやく潤子は、人を褒めることに慣れたような気がしている。
 「ねえ、さっきの話、ベーカリーカフェのことだけど……」
 食後に潤子からそう切り出した。
「健斗君たちの本気度は知らないけど、あなたがほんとにやりたいんだったら、考えてみてもいいんじゃない」
「えっ、何を?」
「だから、ベーカリーカフェよ」
「え、マジで? 俺が? いや、やるからには金が要るだろう」
「来年定年でしょ。退職金があるじゃない」
 耕平は一瞬固まって、和犬のような眼差しでじっと潤子を見つめた。
「退職金使ったら、老後の金がなくなるよ?」
「どれくらい使うのかは別として、老後のお金ならなんとかなるわよ」「え、そうなのか。……まあ、そうか」
 耕平はモゴモゴと小さく呟いた後に、すっかり口を閉ざしてしまった。頭の整理がつかないのかもしれない。
 「だって、なんだか面白そうじゃない」
「え、ベーカリーカフェが?」
「そうよ。あなたの家族も巻き込んでの、実家改造計画みたいなもんでしょ? 考えるだけでワクワクじゃない。見てれば分かる」
 耕平は一瞬、両眉をぴくりと持ち上げた。
 「やりたいことがあるんだったら、やれるうちにやってみたほうがいいよね。この頃私、すごくそう思う」
「うん。それは俺もすごく思う。だって人間……」
「いつ死ぬか分かんないもんねぇ」
 潤子が先にそう言うと、耕平は小学生のような素直さでコクリと深く頷いた。
 
 翌朝、いつも通りの簡単な朝食を済ませ、耕平はマグカップに残ったコーヒーの最後の一口を啜ってから言った。
 「夕べの話なんだけどさ、潤子がそう言うんだったら、近いうちいっぺん、健斗たちに話してみようかな」
「え、私のせいにしないでおいてよ? それと、まず弓子さんに話を通してからの方がいいと思う」
「おぅ、そうだな」
 耕平は眩しそうな眼で潤子を一瞬見つめてから視線を落とし、鼻の下を三ミリくらい伸ばした。
 夫のこんな表情を、かつて潤子はどこかで見たような気がする。耕平とつきあい出して半年ほど経った頃だったか、初めて一緒に朝を迎えた日だ。
 カーテンの隙間から射し込む朝の光が、布団にくるまる潤子の顔を照らしていた。若かりし日の耕平は隣で、眩しそうに眼を細めて潤子を見つめた。逆光の中の耕平は、すごく嬉しそうだった。可愛い人だなと、その時強く感じたことを潤子は憶えている。そうだ、その時の耕平と同じ顔だ。
 遠い日の瞬間を想い出して、潤子は少しだけ胸がキュンとなる。そんな自分に呆れながら、洗濯終了ブザーの鳴る洗面所に向かった。
 
 


2

 
 今日は真由子が陽介を連れて遊びに来ている。近所に新しくできたお店のシュークリームが美味しいのだといって、真由子は二つだけ買ってきた。ちょっとケチ臭いかなと思うが、家計に余裕がない中での精一杯の気遣いであろう。嬉しさとほろ苦さが混じる。
 1歳7か月になった陽介は、口は遅いが大抵のことは理解しているようだ。潤子のことを「バァバ」と呼ぶようになった。呼ばれるたびに、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになる。
 少し前に近所の公園で初めてママ友ができたのだと、真由子が嬉しそうに話す。昔から真由子は、誰とでも打ち解けられる子ではない。
 「ちょっと変わった人でさ、なんとなく公園でも浮いて見えたのよ。『私に似てるかも』って思ったら案の定……」
 真由子は漫画好きのその彼女と意気投合し、近頃では子供を連れて互いの家を行き来しているという。
「子育てのこと話せるのも大事だけど、やっぱり自分と趣味が合う人じゃないと、付き合うのは難しいんだよね、私」
 真由子はそう言ってシュークリームを一口頬張ってから、陽介にも一口齧らせた。
 「そうだお母さん、知ってる? 健斗たちのこと」
 陽介の口の周りのクリームをティシュで拭ってやりながら、真由子が勢い込んで言う。
「インスタでハッシュタグ検索してみなよ、『#イケメンパン屋』『#ナオケン』って」
 真由子はそう言いながら、自分のスマホを高速で操っている。
「ほらほら、見て。今、『あんどうパン』がすごいことになってるんだよ。『イケメン二人のレトロなパン屋』って」
 真由子のスマホの画像には、今風のイケメン青年直樹と、見憶えのある健斗が並んで写っている。なるほどこれがナオ君か。通称「ナオケン」の二人の間に客らしき若い女性が立ち、嬉しそうに微笑む画像もある。まるで芸能人気取りだ。
 「昭和レトロなパン屋のアンドーナツが最高に懐かしくて美味しいって、『あんどうなつ』が爆売れしてるんだってよ。そんなに美味しいのかな。私も食べてみたい」
 インスタグラムの画面には、砂糖がべったりとこびりついたあんどうなつのアップ画像が続いている。茶色いキャスケットとエプロン姿のアイドル風ナオ君。ちょっとワイルド系の健斗。写っているのは地元客ではなく、明らかに二人のにわかファンのようだ。
 「へぇ~、ほんとにすごいのね、SNSの力って」
「誰なの、この、ナオって人」
「お父さんからちょっと聞いただけだけど、健斗君の恋人らしいわよ」
「え~、そうなんだ。知らなかった」
 潤子が20代の頃に比べると、今はだいぶ寛容な社会になりつつあるようだ。
 ふと横を見ると、陽介がカスタードクリームのついた指で真由子のスマホをいじっている。
「あ、陽介、やだぁ、ひどい! ベタベタ~!」
 真由子がいつものように大慌てしながらスマホの画面を拭いている。その様子を見て、陽介と潤子は声をあげて笑った。
 
 久しぶりに週末、シンガポールの涼太とビデオ通話をした。
「母さん、元気だった? あれ、ちょっと痩せたよね。大丈夫?」
 どこにいても良く気のつく息子だ。日焼けして以前よりも精悍な顔つきになっている。
 「実はさ、玲奈が今、日本に行ってるんだ」
「あら、どうしたの。何か用があって?」
「うん。最近両親の離婚が決まって、青葉台の自宅を売ることになったらしいんだ」
 涼太は少し言いにくそうに、でも淡々とした様子で話した。
「前々からお互いに恋人がいたんだって。お義父さんの方の事業が最近上手くいってないこともあるみたいで、やっと別れることが決まったそうだよ。それで今、実家に残してる自分の荷物を整理しに帰ってる」
「そう……。玲奈さん、淋しいでしょうね」
「そうだよね。『ずっと前から分かってたことよ』って強がってるけど、実家がなくなるわけだから、淋しいよね。両親ともそれぞれのパートナーと暮らすらしいから、玲奈にしてみたら、きっとどっちの家にも行きづらいと思う。複雑だよね」
 「で、玲奈さんの荷物はどうするの。どこかに運ぶの?」
「う~ん、彼女も悩んでるところだよ。こっちに送るのも馬鹿らしいし、想い出の物がほとんどだろうけど、この際処分するか、小さいトランクルームでも借りるか。最近は箱で預けるサービスとかもあるけど……」
「そういうのって、毎月利用料がかかるんでしょう。もったいないじゃない。玲奈さんがイヤじゃなければ、うちに送ればいいわよ。段ボール箱いくつかの程度でしょ。それくらい、どこにでも置いておけるから」
「ほんと? ありがとう。玲奈にすぐ伝えるよ。母さん、やっぱり優しいな」
 涼太はそう言って、ひとまず通話を切った。さり気なくいつも、要所要所で台詞をキメてくる。人の心をスッと掴むスキルは天賦の才だ。子供の頃から変わらない。
 婚姻前に涼太たち夫婦は、海外赴任前提で新居を借りた。主な家電や家具はほとんどがレンタル、流行りのサブスクリプションを利用したので、余計な荷物をどこかに保管することなく賃貸を解約し、渡航した。最近の若者は賢いなと潤子は思う。
 十五分後くらいに、涼太からもう一度連絡があった。
 「今、玲奈と連絡ついたよ。荷物うちに送ればいいって言われたこと伝えたら、すごく喜んでた。明後日の午前中着で送ってもいい? 小さめのダンボール三箱だって」
 潤子は快諾した。
 「玲奈はいつも、うちのこと羨ましがってるよ。父さんと母さんが仲良さそうだし、なんだかすごくホッとする感じだって」
「え、そう? まあ、玲奈さんのおうちみたいにお洒落じゃないからね」
 パソコンの画面越しに、二人で笑いあった。
 「そうだ。最近の健斗君のこと知ってる?」
 潤子はインスタグラムの件を涼太に伝えた。
 涼太は手元のスマートフォンですぐに検索し、あんどうなつをトングで挟んで微笑む健斗の画像を見つけて大笑いした。
「それでこのイケメンの彼が健斗の恋人なの? そうかぁ。まあ僕は正直うすうす気づいてたけどね」
「え、そうなの? いつから?」
「中学生くらいの頃かな。あの頃はまだ、正月とか夏休みとかに、よく健斗と一緒に遊んだりしたよね」
 そうだったのか。涼太は勘がいい。
 「母さん、今度こっちに遊びにきたら? すごく良いところだよ」
「シンガポールに? そうねぇ……」
「真由子もやっと手が離れたんだし、母さんもこれからは自由に遊びなよ。もっと人生楽しまないと」
「ほんと、そうよねぇ。……実は今、迷ってるの」
「あ、もしかしてペルー旅行? 前にドタキャンになっちゃったやつ」
 川の水が流れるように、会話は滑らかに続く。
「行ってきなよ! 足腰が動く、まさに今のうちだと思うよ。不安だったら、父さんでも誘ったら?」
「ううん。行くなら一人って決めてるの」
 速攻で否定した潤子を見て、「まぁ解るよ」と言って涼太は笑った。
 こんなふうに二人だけでゆっくりと会話するのは、ずいぶんと久しぶりだった。隣に妻がいないせいか、役割をひとつ脱いだ涼太は、いつもよりも無邪気に見えた。
 「こっちに帰ることがあったら、いつでも二人で寄りなさいね。一階の八畳間が空いてるから泊まれるわよ」
「うん、ありがとう。その時にはそうするよ」
 
 ビデオ通話の画面を切ると、色々な想いが溢れて胸が熱くなった。久しぶりに話が通じる相手と言葉を交わしたような気がする。涼太は優しい子に育ったなと、しみじみ思う。そして玲奈の心模様を想像すると、やはり胸が痛んだ。
 潤子はかつて玲奈の実家を訪れた日のことを想い出す。日焼けした父親の厚い胸板、母親の白いうなじの後れ毛、皿に置かれた水色の布の薔薇……。真実は大抵、外からは見えない場所に隠れているものだ。
 耕平が大宮の実家でカフェを始めたら、生活拠点はほぼ向こうに移るのではないかと潤子は想像している。ほとんどの時間を一人一軒家で過ごすのであれば、いっそこの家に真由子達家族を住まわせて、自分はアローアイランドの一室に移って暮らしてみようかと、最近こっそりとそんなことを夢想してみたりもした。
 潤子は長いこと、一人暮らしに憧れていたのだ。一人の時間、一人の空間。一人になったら違う自分に生まれ変わり、違う人生が始まるような、そんな幻想を抱いていたのかもしれない。だけど現実は、決してそんなふうではない。
 私はやっぱり、この家に居よう。潤子は今、静かな気持ちでそう考える。私がこの家に居ることは、おそらくそれなりに意味があるんだろう。真由子達だって涼太だって玲奈にだって、ふと思い立った時に立ち寄れる、身を寄せる場所があるというのは、きっと幸せなことに違いない。自分が実家と呼べる場所を失ってみて、潤子はしみじみと感じ入る。 
 そうかこの家は、そして自分は、家族の波止場のようであればいいのだ。夫も子供達も孫も、この先自由に立ち寄ればいい。そして私自身も、自由であればいい。
 私は波止場……。
 潤子は心の中でそう呟いてみて、昔の演歌のタイトルのようだと可笑しくなった。
 
 その晩潤子はパソコンを開き、改めてマチュピチュ遺跡の画像や映像に見入った。今までにもう、何度見たか分からない。ペルー旅行記を綴った、他人のブログなども読み込んできた。
 潤子の身体は人形のように小さくなって、ドローンの上に乗っている。ドローンはワイナピチュの山の斜面を舐めるように頂上まで進み、そこからマチュピチュの遺跡を見下ろしている。立ち込めていた雲が晴れ、青空の下に広がる絶景。インカ帝国の幻の天空都市。
 眼を瞑り、その光景を想い浮かべるだけで、潤子は腹の底から見えない力が漲ってくるような気がするのだ。何にそれほど惹きつけられるのか、自分でも解らない。解らないからこそ赴き、この足で歩き、この瞼に焼きつけてこなければいけないような、そんな気持ちにさえなってくる。そうだ、今度こそきっと。
 自分に足りないのは「冒険」だと、常々潤子は思っている。今までの人生、自分なりに真面目に生きてきた。眼の前のやるべきこと、ちょっとした困難。すぐ鼻の先にある幸せの欠片、ささやかな楽しみ。そんなものをこなしたり消化したりして、ここまで来た。小さな怒りや虚しい溜息を、誤魔化し続けて生きてきた。
 もったいない! このまま死んだら、私はあまりにももったいない。
 雷に打たれたように、唐突に強く、そう思った。私にだって、まだまだ見たい景色がある。もっと知りたい世界がある。
 「……よし!」
 潤子は小さく呟いて、パソコンを閉じた。
 
 
 

3
 
 耕平は動き出したようだ。
 週末の朝、いつものようにトーストの最後の一口をリズミカルに咀嚼し、コーヒーを啜り終わった耕平が言った。
「今夜、オフクロのところに泊まってくるから。弓子と弘幸と健斗たちと、カフェの件、皆で集まって話詰めてくるよ」
 耕平の鼻の穴に力が入っている。勢いづいている印である。昔から義弟を「弘幸」などと呼び捨てにしているのは、「俺の高校の後輩だから」だ。    
 「弓子さん達は何て言ってるの?」
「それが驚くくらいノリノリなんだよな。健斗達のおかげで売り上げ伸びてるせいか、すごい前のめり。俺の定年はまだ十ヶ月も先だっていうの」
 耕平は渋い表情をつくってみるが、嬉しさが滲み出ている。
 「あのナオ君な、愛想がいいだけじゃなくって、美容師だけあって手先も器用なんだとさ。健斗も思った以上に要領良くってすっかり作業を任せられるし、二人とも接客慣れしてるし、って弓子が大喜びしてるよ」
 安藤家に今、風が吹いている。誰の人生にもきっと、何度かそんなふうに、風の吹くタイミングがある。いわゆる運気が向いてきた時期、なのかもしれない。
 かつて耕平が涼太の話題を持ち出すたびに、さりげなく顔を背けてその場から遠ざかっていく弓子の横顔を、潤子は想い出していた。しかし今まさに、健斗にスポットライトが当たっているのだ。弓子の嬉しそうな顔が眼に浮かぶ。
 
 耕平は日曜の晩に帰宅した。
 リビングのドアが開いて耕平が姿を現した瞬間、潤子は心臓が止まりそうになった。知らない男が突如侵入してきたかと思ったのだ。それくらい耕平は別人のようだった。
 「やだ、誰かと思った。びっくりした……」
「悪くないだろ? ナオがカットしてくれたんだよ」
 襟足はスッキリと刈り込まれ、全体が短く今風に仕上がっている。テレビや雑誌で見かける最近のお洒落な男性モデルは、大抵こんなふうな髪型だ。比率にして半分くらいの白髪が、俗っぽさを程よく抑えているようでもある。
 ここは中途半端にではなく思いきり褒めておくところだと、潤子は最大限の賛辞を贈った。
「カッコいい! すごいオシャレよ、似合ってる!」
 耕平は嬉しさと照れ臭さのあまり不自然に声をあげて笑い、洗面所に手を洗いに行った。きっと鏡の中の自分に見惚れているに違いない。
 「しかし、アレだね。やっぱり近所の床屋とは、仕上がりの雰囲気が違うもんだね」
 リビングに戻って来た耕平は上機嫌で言う。
「ほんとにね。イメージがガラッと変わって見えるもん」
「今風の若者たちと働くからには、こっちもちょっとそれなりに手入れしないとな。イメージ戦略は大事だと思ってさ」
 完璧にその気になっている。カフェの話が上手く進行しているようだ。
 
 耕平をすっかりその気にさせてしまった、自分の責任は大きいかもしれないと、その晩潤子は不安になった。大金をつぎ込み、夢を実現させて喜んだのも束の間、経営不振で閉店に追い込まれる飲食店のケースは珍しくない。   
 もし父の稔が生きていたら、「そんな馬鹿な真似はよせ」と言うだろうか。「素人が生半可な気持ちで商売に手を出すものではない」と、耕平を諭しただろうか。
 いつまで経ってもそんなふうに、父親の声に惑わされる自分に気づき、潤子は小さく首を横に振る。
 大丈夫だよ。大丈夫。
 潤子はそう言い聞かせる。亡き稔にではない、自分自身に向かってだ。
 
 ペルーは今、雨季に入っている。次に乾季が訪れるのは、来年の五月だ。どうせならば万全の態勢で臨みたい。潤子は半年先の五月の末あたりに照準を定めることにした。
 それまでに少し、体力をつけておかなくちゃ。
 潤子は筋肉の少ない自分の脚を見つめて考える。真由子たちが家を出て耕平と二人暮らしになってから、家事量も運動量も急激に減った。これではいけない。旅を存分に楽しむため、まずは緩んだ身体に喝を入れよう。
 潤子はそう思いついた勢いで、駅近にある女性専用フィットネスジムのウェブページにアクセスした。
 「運動の苦手な貴女でも大丈夫! 40代から60代の方がほとんどです」そんなコピーの脇で、中高年モデルの女性が笑顔でフィットネスバイクに乗っている。
 今なら初回お試し体験無料、入会金半額キャンペーン中か。これにしよう。
「……よし!」
 潤子は唇をキュッと閉じながら、「お試し体験申し込み」のバナーをクリックした。


……第7章につづく……


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