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小説「フルムーンハウスの今夜のごはん」【第4章】あの部屋

第4章 あの部屋


1

 ホームに入居してからわずか一年余りの今年二月、潤子の父、矢島稔は誤嚥性肺炎で急逝した。
 最近食欲が落ちているとホームから連絡を受けた直後、稔は急に容体が悪化し、連携病院に搬送された。そして人工呼吸器装着の是非を問う間もなくあっさりと、稔は息を引き取ったのだった。
 遺された者にはいつだって、幾ばくかの後悔がつきものだ。こんなに早く別れが訪れるなら、もっと頻繁に逢いに行けばよかった。もう少し心の準備が整っていたならば、父に感謝の言葉を伝えることだってできたのに……
 それでも91歳という年齢を思えば、充分良く生きたほうではないか。孫を見せ、曾孫を抱かせることすら叶ったのだから、一人娘としてそれほど悔いることはないのかもしれない。
 しかしある一点において、どうしても解けないわだかまりが、今も潤子の中にくすぶっている。潤子は苦々しい思いで典子の横顔を見つめる。

 介護付き有料老人ホームに入居後の潤子の両親は、互いに違う方向に進んでいった。稔は体力が衰えていく反面、知的好奇心は旺盛なままだった。毎日長い時間をかけて新聞を読み込み、たまに訪問する潤子相手に、政治や経済の今を熱心に語ったりした。
 一方の典子は、同年代の仲間と触れ合うことで人が変わったように社交的になったものの、認知症の始まりなのだろうか、今までには見られなかったような言動で潤子を驚かせることが増えていった。稔とは逆に食欲旺盛となり、以前より肌の色艶も良くなったほどだ。
 潤子がホームに面会に行くと、稔は大抵居室に籠って読書をしていることが多かったが、典子のほうはいつ見ても食堂スペースなどのどこかで、誰かしら入居者の隣にいて話しかけているのだ。それも多くの場合、相手は男性だった。
 小さな肩をまるめ、心なしかいくぶん擦り寄るようにして、典子は男性入居者の顔を覗き見ながら談笑していた。単なるお仲間としてではなく、明らかに異性として相手を捉えている雰囲気が明白だった。90歳も近い自分の母親がこの期に及んで妙な色香を振り撒く様子に、潤子は唖然とした。

 民間の有料老人ホームにも様々なランクがある。きわめて庶民的なホームから、明らかな富裕層をターゲットとしたところまで、まさにピンキリの世界である。ホームの外観、内装はもちろんのこと、食事内容も、そして何よりスタッフの入居者に対する姿勢が、それぞれにまったく異なる。
 入居費用や毎月の経費が高いハイクラスのホームでは、入居者を敬うように「〇〇様」と苗字で呼ぶことが多い。入居者には大企業の役員や弁護士、医師といった経歴の人も多いので、個人のプライドを満足させるような配慮がなされているのだ。
 潤子の両親は、それほど派手な人種ではない。頻繁に海外旅行に出かけたり、社交ダンスを楽しんだり、銀座の高級鮨店の常連だったり、そういったタイプの人間ではなかった。
 「何事も分相応」「己をわきまえることが大事だ」というのが稔の口癖であったから、彼等が選んだホームもそれなりの、標準クラスよりは上だが最上級ではない、というレベルだった。
 ホームには季節ごとに、様々な催し物があった。お正月にお花見に、七夕祭りにクリスマス会、その他諸々毎月何かしらのイベント、お楽しみ会が存在した。時々は入居者の家族にも参加のお誘いがあり、潤子も何度かホームに足を運んだ。

 十二月の半ば過ぎには、クリスマスイベントが開催された。ホーム一階のホール奥には、この日のために低いステージが設えてあった。
 無名のオペラ歌手の女性が、胸元の大きく開いたゴージャスな深紅のドレスを纏ってクリスマスソングを歌っている。それが終わると、サンタクロースとトナカイに扮したホームのスタッフ達が登場し、ハンドベルの演奏を披露する。お次は素人レベルのピアノ伴奏に合わせて、入居者達が「ジングルベル」を歌う。
 「まるで幼稚園行事だろう? 私はもう部屋に戻るよ」
 観客席の最後列に腰かけていた稔は、苦笑しながら席を立った。
「待って。ねえ、お母さんはどこにいるの」
 潤子が慌ててそう訊くと、稔は口をへの字に曲げ、観客の最前列辺りを指さす。
「おまえの母さんは、どうやら恋をしているようだよ」
 ステージに向かって最前列の席に、典子の小さな背中が見えた。隣には、典子が最近いつも口にしている「ステキな花村さん」がいる。典子と同齢くらいの、痩せて背の高い男だ。若い頃は結構な美男子だったと思われるが、潤子から見れば皺だらけで総入れ歯の、ヒョロリとした老人でしかない。
 「花村さん、私の娘の潤子です」
 ローズピンクの口紅が目立ちすぎる典子は、しなをつくって花村の顔を見上げる。
「こんにちは。母がお世話になっています」 
 潤子が愛想笑いを浮かべてそう言うと、花村は目を細めて潤子を見つめた。
「やあやあ、典子さんに似てお嬢さんも美人さんだなぁ」
「あらもう、やだわ、花村さんったら」
 典子は普段よりもワントーン高い声でそう言い、恥じらって見せる。
 自分の母親は、はて、こんな女だったのか。もしかしたら今まで自分が、母親の女の部分に気づく機会がなかっただけなんじゃないか。もしかしたら本来典子という女は、こうして男に媚びるタイプの人間だったのではないか。歳をとるとその人間の本性みたいな部分が増長されて、隠しようがなく滲み出てしまうものなのか。
 「じゃあ私、お父さんのところに行ってるわね」
 潤子が花村の前で聞こえよがしにそう言うと、「あらそう。またね」と、典子はあっさり背を向けた。

 そして年が明けて二月。ホームではヴァレンタインデーに向けてチョコレートづくりが行われた。板チョコを溶かしてハートの型に流し込み、多少のトッピングを施すレベルのもののようだったが、典子は異様に張り切っている様子だった。
 「作ったチョコ、誰にあげるの」
 潤子がわざと訊ねてみると、
「何言ってるの。花村さんに決まってるでしょ」
 涼しい声でそう言い放つ典子を、潤子はもう、母親以外の別の生き物として捉えることにしようと思った。
 稔が誤嚥性肺炎で救急搬送されたのは、その二日後のことだった。

 「花村さんに、チョコレート渡せなかった」
 斎場に向かう車の中で典子は、口を尖らせて不満を漏らした。
「え、何ですって?」
 助手席に座る耕平が、後部座席の典子を振り返って訊ねる。
「せっかくチョコレートを手作りしたのよ。ヴァレンタインデーに渡すつもりで」
 そう言って典子は、金色のリボンのかかった赤い小箱をバッグから取り出して見せた。何故典子がそんな物をバッグに忍ばせてきたのか、潤子には解らなかった。
「ああ、残念でしたね。じゃあ後で、お棺に入れてあげましょう」
 事情を知らないとはいえ、耕平にしては気の利いた台詞だなと感心した瞬間、典子が思いがけず大きな声で反論した。
「違うわよ! これは花村さんにあげるチョコレートなんだから」
 潤子は腹立たしいような情けないような心持ちで、ぼんやりと耕平の横顔を見つめた。
「ああ、そうなんですね……」
 耕平の曖昧な返事の後は、皆無言だった。 

 稔に最後の別れをする時が来た。長く病に苦しんだわけでもなく、稔の死に顔はきれいで穏やかだった。潤子は稔が愛読していた新聞のその日の朝刊を胸元に添えてやった。愛用の眼鏡は、できれば最後に骨壺の中に入れてあげよう。
 「やっぱりお父さんにあげようかしら」
 何を思ったか、典子が急にチョコレートの赤い小箱を持ち出して、稔の柩にねじ込もうとする。
 澱んだ眼で呟く典子の手首をひょいと捕まえて、静かに強く、潤子は言った。
「それは、入れなくていいから」
 典子は一瞬たじろいで、でもすぐにホッとしたような表情を見せて、小箱を握る手を引っ込めた。
 母は惚けているだけなのだと、潤子は何度も自分に言い聞かせてきた。知っている限り、以前の母が父を裏切ったことなどない。熱烈に愛し合っていると感じたことはないが、ごく普通に、常識的な夫婦として、穏やかな人生を過ごしてきたはずだった。
 それなのにどうしても潤子には、稔の晩年が典子によって汚されたような気がしてならなかった。特にこの半年から一年ほどの典子の醜態を、稔はどう感じていたのか。妻を憐れんでいたのか。虚しくはなかったか。やはり淋しかったのではないか。
 こんなことになるなら、ホームに入居するという二人を説き伏せて、自分が同居して世話をすればよかったんじゃないか。大好きな父の晩年を、もっと幸せに送らせてあげることもできたんじゃないか。
 「お父さん、ごめんなさい……」
 潤子は小さく呟いて、稔の冷たい頬を撫でながら泣いた。

 

 
2

  典子は今や我儘で奔放な老女と化している。稔の死後、夫婦二人用の広い居室から一人用居室に移ろうと勧めても、典子は「イヤよ」の一点張りである。「この部屋が気に入ってるんだもの」と表情を強張らせる典子には、最早何を言っても無駄のような気すらする。
 「お部屋などの生活環境が変わることで、急に認知症が進行するケースはありますから」と、ホーム側からも猶予を与えられた。毎月余計な出費がかさむのは腹立たしいが、もう暫く様子を見るしかなさそうだ。

 長年連れ添った伴侶を亡くしたらどれほど憔悴するのだろうと、入居当初は想像して胸を痛めた潤子だったが、まったく杞憂に過ぎなかった。
 稔を亡くした典子はホームで日々、コーラスに参加したり絵手紙に挑戦したり、リハビリに励んだり男性入居者に媚びたりして余生を謳歌しているように見える。
 だけどやがてはもっと身体も弱って、混乱して、見苦しくなって、ついには娘の顔も分からなくなって、ああお母さんってこんな人だったのかと心底呆れ果てたり、面会に行くのも憂鬱になったり、きっとそんな日がやって来るのだ。
 さんざん相手を困らせたり、うんざりさせたり、でもだからこそ、死んだ時にそれほど周りを哀しませないで済むのかもしれないなと、この頃潤子はぼんやりと想う。面倒な厄介者であればあるほど、遺された家族の痛みは軽くなるのだろう。

  真由子たちは今春、親子三人でこの家を出た。一駅離れた町中に、古いけれど綺麗に手入れされた2DKのアパートを借りたのだ。若い家族は事実上やっと自立したことになる。
 不器用な真由子は、育児をしながら外で働くことなど、自分にはとても無理だと自覚している。それ以前に初めて親元を離れ、はたして家事や育児をこなせるのだろうかと案じたが、どうにかこうにかやれているようだった。   
 潤子の眼から見ると、陽介は育てやすい子供の部類に入る。真由子が赤ん坊の頃のような、意味不明に長時間泣き続けたり少しの物音で目を覚ましたりという、極端に過敏なところはなかった。授かった子供が育てやすいかどうかは、その後の母親の人生を大きく左右すると言っても過言ではない。
 さらに、家事育児と何の気負いもなくこなす優也の力は大きい。真由子が優也のような男に出逢えて結ばれたのは奇蹟といってもいいだろうと、潤子はしみじみと感じ入っている。

 「久しぶりに美容室に行きたい」と、本日真由子は隣町から自転車で我が家まで、陽介を預けにやってきた。陽介は最近、自転車の前乗りカゴデビューをしたばかりだ。
 陽介は1歳2か月になった。まだいくらか危なっかしいものの、最近はあんよもずいぶん上達した。しかしそのぶん目が離せない。キッチンの抽斗の中を探っていたり、潤子の財布から小銭を出してばら撒いてみたり、ふと気づけば小さな指で、スマートフォンの画面を器用にスクロールしていたりする。油断はできない。
 五月の陽射しが降り注ぐリビングでは、フローリングに敷かれた小さな布団で今、陽介が昼寝をしている。できるだけ長く眠っていてねと念じながら、潤子は静かにコーヒーを淹れた。
 食卓の、あえて陽介の姿が視界に入らない位置の椅子に腰かけ、コーヒーを一口呑み込んだ潤子は大きく溜息をついた。子供が寝ると、とにかくホッとする。それは三十年ほど昔の自分の子育ての時も、孫の子守りをする今この時も、まったく変わらぬ思いだ。子供が寝ている間に束の間リフレッシュしたい。
 それでも陽介たちが帰りホッとした途端にいつも、潤子の心に小さな穴が開く。どこか淋しい。物足りない。急に家族が減って、夫と二人暮らしになったのだ。耕平では潤子の心の穴を埋められない。
 都内に住んでいるというのに、結婚後の涼太達とは数えるほども顔を合わせていない。潤子はなんとなく、涼太を婿に取られたような気分がしないでもなかった。でも息子を持った母親は皆似たようなことを感じるらしいと知り、まあそんなものかと思うようにした。
 そして昨秋、涼太と玲奈の二人は海外に飛んだ。お約束どおりの海外駐在で、シンガポールに三年ほどの予定だそうだ。あの二人なら他の駐在員家族とも地元の人たちとも、きっと上手くやっていくに違いない。

 それにしても……と潤子は鏡を手に取る。「孫ができると女は一気に老けるわよ」と、いつか誰かが言っていた。鏡に映っているのは、なるほど「おばあちゃん」らしさの増した、弛んだ頬の女だ。
 潤子は先日、十倍率の拡大鏡をネットで購入した。今まで使っていた二倍率の鏡では見えづらくなったからだ。そして初めて十倍に拡大された自分の肌を見た時に、潤子は大きな衝撃とともに激しく後悔した。見なきゃよかった。こんな物、買わなきゃよかった。まだらに浮き出たシミ、歪んだ毛穴に小皺、その中に埋もれてよれたファンデーション。こんなに私は汚くなっていたのか。
 いっそ知らずにいたら幸せだったのかもしれない。自分の眼に映らない物を、無理して見つめる必要はなかったのではないか。しかしやはり、現実は直視すべきだ。他人の眼には映っているのに、自分にだけ見えていない世界が存在するという事実は、潤子には受け入れがたい。
 近頃の潤子の胸の中には度々、「喪失感」という言葉が浮かんでくる。親は亡くなる。子供は巣立つ。女としての潤いもすっかり失くしてしまった。今の自分の心模様を一言で表すとしたら、「喪失感」が一番しっくりくる。 
 私の頭を撫でてくれる人、私の肩を抱いてくれる人、そんな人はもういない。この先そんなことがあるとしたらきっと、自分の最期、柩の蓋が閉められる直前なのではないか。
 しんみりとした気持ちに浸っていると、昼寝から目覚めた陽介が小さな声で泣き出した。
「陽ちゃん、起きたの。ヨシヨシヨシ……」
 布団の上に立ち上がった陽介を、潤子は跪いて抱きしめる。陽介の汗ばんだ頭皮の、少し埃臭い日向のようなにおいを吸い込みながら、小さくやわらかな背中を掌で擦る。オキシトシンの分泌を促してくれるのは、もはや孫だけだ。

 

 
3

  晴和不動産は、地域に根付いた昔ながらの小さな不動産屋である。三十二年ほど昔、潤子の父、矢島稔は賃貸マンションを建て、以来その管理業務の一切を晴和不動産に任せてきた。当時は大森和彦が代表を務めていたが、一昨年脳梗塞で倒れて四肢に麻痺が残ってからは、和彦の長男、晴彦がその跡を継いでいた。
 矢島家が所有している四階建て鉄筋マンション「アローアイランド」は、建築当時はそれなりに洒落た、賃貸にしては立派なタイル貼りの物件だった。しかし人間と同様建造物も、年々確実に歳をとる。築三十年を迎えたあたりから、すぐには空室が埋まらないようになってきた。
 「近隣にいくつか、新しい賃貸アパートが出てきてますからね。造りは安っぽくても見た目や設備が今風に洒落てるもんですから、若いご夫婦なんかは新しい物件の方に流れちゃうんですよ」
 大森晴彦からも以前、そんな話を聞かされていた。
 空室となった203号室の水廻り設備をこの際一式新しくしてはどうかと、先日大森から相談を持ち掛けられていた。そこで近いうちに潤子が現地に行き、大森と一緒に室内の様子を確認することになった。設備の古さ故に契約が決まらず空室が続けば、損失は馬鹿にならない。

 その日潤子は、大森との待ち合わせ時刻の数分前に現地に到着した。
 マンションの玄関右手の壁には、銅ブロンズ鋳物製の看板が掲げられている。カタカナで「アローアイランド」と、奇妙に斜体のかかった文字でマンション名が綴られている。「アロー」の音引きが矢印にデザインされているところが、潤子は昔から気恥しかった。
 それにしても一時期、この手のネーミングが流行ったのはどういうわけだったのだろう。オーナーの苗字を無理やり英語化するという妙な現象が目立った。矢島だから「アローアイランド」。これは稔によるネーミングに違いない。真面目で凡庸で冒険をしない父親らしい選択だと思う。
 少し離れたところには、平野さんが所有するマンション、「メゾン・フラットフィールド」が建っている。二階建てアパート「フィフティストーム中野」の大家は五十嵐さん。富永さんの豪邸の脇に建つ賃貸マンションは、滑らかなイタリック体で綴られた「Fortune Forever」のプレートを掲げている。フォーチュンフォーエヴァーときたか。強欲感のあるネーミング、よくぞ思いついたものだと感心する。 
 潤子はそんな他愛のないことを考えながらふと、両親がかつて暮らしていた四階の部屋を見上げた。今は地元の企業が社宅として借り上げてくれている。バルコニーに並べて干されたカラフルな子供服が、夏の陽射しを浴びて微かに揺れている。両親が居たあの場所に今、若くて健全な空気が流れているようだと知り、潤子は何となくホッとした。

 「すみません望月さん、遅くなりました~」
 大森は、定刻ピッタリに炎天下を小走りでやってきた。
「暑い中お待たせして申し訳ありません。前の仕事が長引いてしまいました」
 39歳独身の大森は、白い歯を見せて笑いながら額の汗を拭う。
 近頃のアラフォーは若いなと潤子は思う。顎のラインは充分に青年の面影を残しているし、隣に並んでも加齢臭などひとつもしない。汗が若い。細胞が若い。血管を流れる血液も、サラサラと唄うように巡っているに違いない。耕平とは明らかに鮮度が違う。
 自分よりも頭ひとつ分高い位置にある大森の横顔をこっそりと見上げながら、潤子の気分はわずかに高揚する。

 今回アローアイランドの203号室を退去したのは、50代前半の独身女性だった。契約更新を繰り返し、十五年近く同じ部屋に住み続けていた。大家にとっては貴重なタイプの店子である。
 女性は両親の介護のために、地方の実家に戻ることにしたという。そのために彼女が仕事を辞めたのか、自分の人生の何かを諦めたのか、詳しいことは誰も知らない。
 「真面目そうな、感じの良い方でしたよ。家賃の遅れなんか一度もなかったですし」
 大森は203号室の鍵を開けながら言う。扉が開くと、かつて潤子の両親が暮らしていた部屋と同じにおいが鼻を衝いた。
 1LDKの部屋の壁には家具の跡が黒く残っていたが、独居だったせいかフローリングは綺麗な状態だった。しかしキッチンシンクもトイレの便器もさすがに古びている。浴室のポリバスには、落ちそうにない水垢のラインが薄黒く染みついていた。
 しっかりとクリーニングを入れたところで、ここまで古ぼけた部屋に明るい未来を描くことは難しい。私だったら絶対に借りないなと、潤子は思う。  
 「これはちょっともう、全取っ替えした方が良さそうですね」
 潤子が大森を見上げてそう言うと、
「ですよね。水廻りが新しくなると印象がグッと良くなりますから。この部屋は陽当たりもいいですし、リフォームしたらすぐ決まりますよ」
 狭い浴室内に、思いのほか互いの声が響き合った。大森との距離の近さに一瞬頬が赤らんだような気がして、気取られぬよう潤子は、精一杯涼やかな笑みを浮かべて頷いた。

 リフォームの見積もりについて大森と話しながらアローアイランドの内階段を降りると、一階のフロアの奥に人影が見えた。60代半ばくらいの華奢な女性だ。携帯電話を握りしめながら104号室の扉の前をウロウロしている。  
 「どうかされましたか」
 潤子が控え目に声を掛けると、女性は一瞬跳ねるように驚いてから、濁った眼を向けた。
「私、ここに住んでた者です。山田の家内です。先月別れたけど……」「あ、山田さんですね。どうも、晴和不動産の大森です。え~っと、別れたって……、失礼ですけど、離婚されたってことですか。ということは今、ご主人お一人住まいってことでしょうか」
「そう。それで置き忘れた荷物を取りに行こうと思って、夕べから何度も連絡してたんだけど、携帯にも出ないし電話も繋がらないし、チャイム鳴らしても反応ないのよ」
「どこか旅行にでもお出かけですかね」
 大森が気軽な口調で応えると、
「旅行なんて行くような人じゃないわよ!」
 喰ってかかるような非常識な物言いに、大森と潤子はたじろいだ。
 104号室の山田夫妻は、確かアローアイランドの中で一番古くからの賃借人だ。離婚して今は清水克子だと名乗るこの女性に見憶えはないが、山田庄司の方はだいぶ昔に二度ほど見かけたことがある。中肉中背の、平凡な雰囲気の男だった。契約人である山田自身が居住中であれば、居住実態の訂正を自ら進んで不動産屋に届け出るとも思えない。離婚したとなれば尚更だ。
 「私、もうこの部屋の鍵持ってないのよ。不動産屋なら鍵のスペア持ってるわよね」
「あ~、すみません、今は持ってないですね。社に戻ればありますけど。持って来させましょうか」
 大森はそう言いながらスマホを取り出し電話をかけたが、すぐに留守電に切り替わった。
「すみません、ちょっと今全員出払っちゃってるみたいです」
 全員出払っていると言ったところで、所詮小さな室内に一人か二人スタッフがいる規模の不動産屋だ。
 「どうしましょう。私、鍵取りに行ってきましょうか? 今日車じゃないんで、往復三十分近くかかっちゃうかと思うんですけど。お待ちいただけるなら……」
「早く持ってきて!」
 清水克子の強い口調に「わかりました」と大森は、逃げるようにその場を立ち去った。

 克子は筋張った手で両頬を包み込み、呻くように呟いた。
「中で死んでたらどうしよう……」
 まさか、ちょっとやめてよ! 潤子は背筋がゾッとした。
「ちょ、ちょっと外から見てきますよ。私、このマンションの大家ですから」
 潤子はそう言い残し、いったん外に出てから、角部屋である104号室の壁沿いに狭い通路を早足で進んだ。東側の出窓から、レースのカーテン越しにダイニングの灯りが見えた。足元のエアコンの室外機も稼働している。中にいる!
 潤子は自分の心拍数が一気に上がるのを感じながら、急いで部屋の前に戻った。
「中にいらっしゃるみたいですけど。部屋の照明も、エアコンもついてますよ。居留守かしら」
 潤子は必死に冷静を装った。克子はドアフォンのボタンを狂ったように連打しながら噛みつくように言う。
 「ねぇ、三十分も待ってられないわよ。鍵の救急ってあるじゃない。ほら、テレビとかでたまにやってるやつ。鍵がない時に駆けつけてくれるサービス。それ呼んでよ!」
 鍵を失くした時などに呼ぶ、緊急の開錠サービスのことか。まずは大森に電話してみようか潤子が戸惑っていると、
「何してるの、早く! そのスマホで探して、すぐに来てもらってよ! 中で倒れてるかもしれないじゃない。今だったら間に合うかもしれないじゃない!」
 克子のあまりの圧に、潤子は震える指で開錠サービス会社を検索した。検索サイトの一番上に出た会社に電話をすると、「今でしたら十分程度で伺えます」とオペレーターが言うので、その場で要請した。しかし何故店子の別れた女から、この状況で責められねばならぬのか。この世の理不尽はどこにでも転がっている。
 山田庄司と克子は、ひと月前に別れたばかりだという。60代も半ばの夫婦だ。積み重なった事情があるに違いない。山田は地味で無口で用心深く、とにかく家に居るのが好きな男で、滅多に遠出するようなことはないのだと、呪うような暗い声で克子が語る。
 それでももしかしたら山田にだって、電気やエアコンを消し忘れて出かけてしまうほどの急用が生じた可能性だってある。あるいはこの強引で性格のきつそうな克子にほとほと愛想が尽きて、徹底的に居留守を決め込んでいるだけではないのか。どうかそうであってほしい、いやそうに違いないと、潤子は祈るような気持ちで思った。

 そこへ鍵屋がほぼ予定通りに到着した。両手に重たそうな鞄を提げた40代くらいの男だ。
「すみませんねぇ。私、鍵失くしちゃったものだから」
 克子は意味の分からない見栄を張る。
「拝見しますね~」と鍵屋が鍵穴をチョコチョコといじった。
「はい。開きましたね」
 古いタイプのシンプルな鍵だ。あっさりと開錠された。克子がドアレバーを掴んで勢いよく手前に引くと、ガッという重たい音をたててすぐに扉が止まった。鉄の鎖が揺れている。チェーンロックがかかっているのだ。
「……中に、いらっしゃいますね」
 鍵屋が冷酷な声で言う。克子はドアの隙間から室内の廊下に向かって、大声で山田の名を叫ぶ。潤子は夢中でドアフォンのチャイムを鳴らし続けた。「この鎖、切断して!」
 険しい顔で克子が叫ぶと、
「切断しなくても大丈夫ですよ。少々お待ちください」
 鍵屋は涼しい表情で、ドアの隙間から手を突っ込んだり押さえたり、紐を使って引っ張ったりしている。ガチャリと金属音が鳴ると、「開きました」と鍵屋は小さく言った。
 旧式のドアチェーンだとはいえ、プロの手にかかればこんなにも簡単にチェーンロックは解除されてしまうのか。潤子は心底ゾッとした。
 「ほら早く! 入って!」
 克子は背後から物凄い力で肩を掴み、潤子の身体を薄暗い玄関内に押し込む。大きな黒い革靴らしき物に躓きかけながら、潤子は必死に抵抗した。「やめてください。どうして私が……」
「何言ってるの、あなた大家なんでしょう。部屋に入る時には大家が立ち会うのが決まりでしょ。私は離婚してるんだから他人なのよ。もうここの住人じゃないんだから!」
 物凄い剣幕だ。この期に及んで何という言い草か。しかし呆れている場合ではない。理屈はどうでもいい。とにかく今は、中にいるはずの山田の安否を確かめなくてはならない。
 分かった。仕方ない。ここはもう行くしかない。潤子は腹を括り、下唇をきつく噛みしめた。

 靴を脱ぎながら、震える指で照明のスイッチを入れた。怖い。
 廊下を挟んで右手にトイレ。並んで洗面所。どちらも電気は消えている。怖い。
 奥歯がガチガチと鳴る。潤子の背中にぴったりとくっついた克子の鼻息が荒い。     
 左手に洋室のドア。そして突き当りがLDKへのドアだ。格子状の木枠に嵌め込まれたガラスから、室内の灯りが見える。
「真直ぐよ。だいたいいつも居間にいるんだから」
「あ、待って。人の声が聞こえませんか」
 室内から、男の話し声が漏れ出ている。山田が誰かと電話でもしているのではないか。潤子は一縷の望みを抱いた。
「ちがう。あれはテレビよ。昼間のワイドショーかなんかの声よ」
 克子の声も震えている。そう言われれば、聞き覚えのある局アナの声のようだ。テレビがつけっぱなしなのか。
 「ほら、早く。ドアを開けるのよ」
 克子が潤子の背中をゆっくりと押す。怖い。逃げたい。開けたくない。でも開けないわけにはいかない。

 潤子はドアのレバーを掴んで垂直に回し、ゆっくりと手前に引いた。途端にヒンヤリとした空気が流れ出る。冷房で室内は冷え切っている。潤子の全身に鳥肌が立った。
 山田の姿は見えない。テレビの画面ではワイドショーのコメンテーターが、連日の猛暑について大袈裟に喚いている。
 「山田さん……? いらっしゃいませんか」
 口が乾いて声がかすれる。
「ちょっと、いないの? 庄司?」
 ダイニングテーブルの上には缶ビールの空き缶が二本。処方薬の紙袋。水の半分入ったグラス。眼鏡。醤油のこびりついた小皿、箸……。山田庄司がここで飲み食いしていた痕跡だ。
 潤子と克子はいつのまにかしっかりと腕を組みながら、ダイニングテーブルに沿って摺り足で移動した。全身の筋肉が、血管が、おそらく絞り上げるように硬くなっている。
 潤子の眼がフローリングを這う。裸足の爪先が見えた。
 居た。山田だ。テーブルの死角に山田が倒れている。
 潤子は一瞬短い悲鳴を上げ、きつく目を瞑って克子と胸を寄せ合った。  
 「14時52分!」
 聞き耳を立てていたらしい鍵屋の男が、室内の状況を察し玄関口で声を張り上げる。
「触らないで。動かさないでください! まず110番してください」
 場慣れした鍵屋からの冷徹な指示を受け、潤子は勇気を絞って振り返り、フローリングでほぼ仰向けに倒れている山田の全身を見た。それは既に、死体にしか見えなかった。
 潤子は腰が抜けてその場にへたりこんだ。克子は両手で顔を覆ってしゃがみこみ、潤子の隣で小さな身体を震わせている。
 潤子は初めて自分のスマートフォンから110番に電話をした。

 

 

 あの日から十日が経った。いつの間にか夕暮れが早いなと、潤子はリビングから窓の外を見遣った。暦の上ではとっくに秋だ。
 何をしている時でもふと気がつけば、潤子はあの日のことを想い出している。いや、正確に言えば想い出しているのではない。何かの弾みであの日の記憶の塊が、瞬間的に脳に侵入してくるのだ。
 潤子は口を半開きにして、宙の一点を凝視しているように傍からは見える。実際の彼女は、脳内に映し出される映像のワンシーンを、強制的に見せられているのだ。
 潤子の脳内には、何度同じシーンが再現されたか分からない。暗い玄関の灯りをつけ、廊下を進み、ドアを開け、そして……。三十秒にも満たないだろうその一連の流れが、繰り返し繰り返し、見たくもないのに、その同じ場面が再生される。

 あの日潤子は、110とタップした。
 「人が死んでいます」と、スマホを耳にあてがい潤子は言った。それからいつ、誰が、どこで、どんなふうに……と問い続けられ、そうこうしているうちにサイレンの音が鳴り響き、救急やら警察やらが押し寄せた。
 暫くして山田庄司の遺体はストレッチャーに乗せられ、引き攣った表情の克子が救急車に同乗していった。刑事と名乗る男に潤子はいくつもの質問を受けた。鍵を持って戻ってきた大森は慌てふためき、身の潔白を証明する鍵屋に支払いを済ませたようだった。大森もまた、その場で聴取を受けた。
 騒がしさに気づき、「何かあったんですか」と心配げな顔つきで階段を下りてきた住人に、
「急病の方を救急搬送しただけですよ。ご心配なく」
 大森がつくり笑顔で見え透いた嘘を語るのを、潤子はぼんやりと憶えている。
 潤子はその晩帰宅した耕平に、昼間に遭遇した出来事を語った。今さら夫に何を期待するでもなかったが、話さずにはいられなかったのだ。声が少し震えたが、黙っていたら何かに呑み込まれてしまいそうだった。
 「マジか。う~ん……」
 一通りの話を聴いた耕平は、捻り潰すような声で言った。
「……鍵屋より先に、警察呼べばよかったんじゃないか?」
 共感するよりも、正解を追究したがるのが男というものらしい。

 翌日、大森経由で報告があった。検視の結果、山田の死因は虚血性心不全だという。もとより山田には心疾患があり、服薬中でもあった。現場状況から事件性もないため、解剖には至らなかった。死亡推定時刻は発見の前日午後八時頃とのことだった。
 山田が死後の翌日に発見されたのは、不幸中の幸いであった。元妻である克子が、連絡がつかないままわざわざ部屋まで訪ねてきたというのは、虫の知らせであったのかもしれない。当時は猛暑日が続いていたが、暑がりだったという山田が強すぎるくらいに冷房をつけていたのも幸いした。
 「事故物件扱いになってしまうんでしょうか」
 潤子は大森に訊ねた。アローアイランドは、あの有名な事故物件サイトに記載されてしまうのだろうか。
「いや、それがですね、望月さん。老衰だとか今回のような病死の場合はですね、殺人や自殺と違って事故物件扱いしなくていいって、次の借り手にも告知義務はないって、国が方針出したんですよ。独居の高齢者が増えてますから、いちいち事故物件にしてたらキリがないんですね。それに今回は発見が早くて幸いでした。同じ孤独死でも見つかるのがかなり遅れてですね、床にシミができちゃったりとか、ニオイがとれないとか、そういうケースとは違いますからね、問題ないです」
 潤子を安心させたいのか喜ばせたいのか、大森の快活な口ぶりは潤子の気持ちをいっそう滅入らせた。大森はきっとまだ、死から遠い場所を生きている。
 そうか、世間から見たら、山田はやはり孤独死なのか。単身住まいの期間が短かった故に、ラッキーな孤独死といったところか。

 
 「潤子、ちょっと痩せたか?」
 夫婦二人、斜め向かいに食卓を囲んでいたある晩、耕平がぽつりと言った。
「うん、少しね。この頃食欲がないから」
 あの日以来、潤子の食欲はすっかり失せた。耕平と二人だけの夕飯の支度には、ますますエネルギーを使う気になれない。
 今日はスーパーで刺身の盛り合わせを買い、そのままの形で皿に盛り直した。今夜潤子が作ったのは、肉じゃが一品だけだ。水とすき焼きのタレをドバドバと加えただけのぞんざいな味つけだが、今日は少しタレが多すぎた。塩分過多だったなと反省する。
「今日の肉じゃが、美味いな」
 耕平が満足げに芋を口に運んでいる。これで充分らしい。
 それにしても克子は今頃どうしているだろうか。潤子はふとした瞬間、自分の隣で身を屈め、震えていた彼女の小さな背中を想い出す。積年の恨みを抱えていたのだとしても、長年共に生き、そして別れた相手をこんなに早く、それもあんな形で失うことになるなんて……。人生は分からない。まったくもって、分かったもんじゃないと、潤子は瞬きもせずに考える。
 潤子は黙ったまま洗い物を済ませ、ぼんやりとしたまま風呂に入り、リビングのソファに寝転びテレビを観ている耕平に一言「おやすみ」と告げた。「おい、潤子、大丈夫か」
 背中に思いがけず、やわらかい声がかけられた。潤子は振り返らないまま「うん」と応え、階段を上った。

 真由子たち家族が引っ越してからも、潤子は自分の寝室を移動せずにいた。
 「お義母さん、ベッド、一階に戻しましょうか」
 引越し当日、優也が気を利かせて訊いてくれたが断った。一階の洋間は彼等が出た後も、客間としてそのまま空けておくのがいいと思った。真由子が陽介を連れて泊まりに来たり、今後涼太一家に子供が出来て、ひょっとしたら泊まっていくなんてこともあったりするかもしれない。
 今の潤子の寝室は、元は涼太の部屋だ。以前は古い学習机が置かれたままだったが、本人の了解を得て昨年処分した。クローゼットの奥には涼太の高校時代の、寄せ書きのしてあるサッカーボールなどがしまわれている。
 涼太は元気にしてるかな。潤子はシンガポールの街を闊歩する息子の姿を想い描いてみる。意識して、「あの日の記憶」に乗っ取られないように努めているのだ。最近とみに寝つきが悪いのは、きっと年齢的なものもあるんだろう。今度かかりつけ医に睡眠導入剤でも処方してもらおうかと思いながら、潤子は静かに瞼を閉じる。

 その晩潤子は夢を見た。
 そこはアローアイランドの四階、潤子の両親がかつて暮らしていた部屋の前だ。いつものように潤子がドアフォンを鳴らすのに、応答がない。
「お父さん、いないの?」
 潤子は玄関の照明スイッチを入れ、リビングのドアを開ける。そこにはなぜか典子と花村が並んでソファに腰かけ談笑している。
「ねえ、お父さんはどこなの?」
 潤子が問い詰めると、典子は涼しい顔で「あっちの部屋じゃない?」と言う。
 早く行かなくちゃ、早くお父さんを見つけなくちゃと、焦れば焦るほど潤子の両足はもつれて上手く歩けない。
 この部屋だ! 潤子は勢いよく扉を開ける。床に男がうつ伏せに倒れている。
「お父さん!」
 潤子は走り寄って男の上半身を抱き起こす。しかしそれは稔ではない。耕平だ。白眼を剥き、口を半開きにして息絶えた耕平だった。
 ギャーーーーッ! 潤子は叫び、必死に藻掻いた。右足が寝室の壁を強く蹴った。潤子は踵を強打した痛みで夢から醒めた。息が荒い。
 「おい、どうした? 何があった、大丈夫かっ⁉」
 叫び声と物音に驚いて目覚めた耕平が、隣の部屋から慌てて駆けつけた。暗がりの中で、耕平のシルエットが目の前にあった。
 生きてる。よかった。夢でよかった……!
 潤子はベッドの上から両腕を伸ばし、耕平の胸に縋った。……夢でよかった。
「どうした、夢見たのか。そうか……、怖かったんだな。怖い思いしたんだもんな。もう大丈夫だ」
 耕平は潤子の背中を擦りながら言った。初めて耕平の言葉が、潤子の心のほぼ真ん中あたりを射抜いた。結婚後三十三年目にしてやっと、欲しい時に欲しいものをもらえたなと、呼吸を整えながら潤子は思う。
 いつの間にか耕平はちゃっかりとベッドに横たわり、潤子の背中を撫でている。二人で眠るには、潤子のシングルベッドは小さすぎる。思えば涼太を妊娠して以降、耕平の胸の中で眠った記憶など潤子にはない。
 背中を往復する耕平の指の動きは次第に緩慢になり、やがてそれは小さな寝息に代わった。若い頃には感じなかったにおいをわずかに漂わせて、耕平は健やかに眠っている。
 とはいえ潤子だって、若い娘時代のように甘やかに香ることはない。寝汗で湿ったパジャマを着替えるのも面倒で、汗ばんだ身体を横たえたままじっと、耕平の隣で眼を閉じていた。

 


5

 アローアイランドの104号室が明け渡された。
 山田の親兄弟はすでに他界していた。夫婦の間に子供はなく、連絡の取れる親族も見つからないため、直葬の手配や遺骨の引き取り、遺品の整理、処分などすべてを、元妻克子が引き受けたらしい。
 大森がそんな報告とともに、203号室のリフォームの見積もりを持参して潤子の自宅を訪れた。
 「業者の盆休みが重なっちゃったりしたので、見積もり出るのが遅くなりました。お待たせして申し訳ないです」
 大森は爽やかに言うが、潤子はあの日の出来事に囚われていて、リフォームの件などすっかり頭から抜けていた。
 設備品や資材についても、職人の人件費や諸々の経費についても、見積もり書を見たところでそれが適正なのかそうではないのか、潤子には判断がつかない。ごく標準的な賃貸レベルの品を選ぶという前提で、お任せするしかなかった。
 「承知しました。じゃあこちらで手配させていただきますね」
 そう言って書類の一部を封筒に戻す大森の左手薬指に、真新しいプラチナのリングが光って見えた。
「あら、大森さん、それってもしかして……」
「あ、これですか。実は私、先日やっと結婚しました」
 大森ははにかみながら、右手で指輪のあたりを擦った。
 お相手は大森より一回りも若い女性だという。真由子と同年代ということか。この男は自分の娘のような若い女と恋をして、これから家庭を築いていくのか。
 希望に溢れた大森の瑞々しい手の甲を見つめながら、潤子は自分が遥か遠い向こう岸に立たされているような気になった。ふと視線を落とした瞬間、青黒い血管が水脈のように浮き出た自分の手を見つけて、潤子はそれをさりげなくテーブルの下に隠した。
 「あ、そうだ、忘れるところでした。これ、先日山田さんの奥さんから……、あ、もう奥さんじゃないのか、清水さんから、うちのほうに送られてきました。『大家さんに渡してください』ってことです」
 大森はそう言って、小さな菓子折りらしき物を紙袋ごと潤子に手渡して帰った。
 最中六個入りの小箱には、封筒にも入っていない二つ折りの一筆箋が添えられていた。

その節はお世話になりました。
何とか気持ちを立て直して、生きていきます。        清水克子

 お世辞にも上手とは言えない、妙に筆圧の強い文字でそう綴られていた。その愛想のない無骨な文字面に、偽りのない克子の真心と痛みが滲んで見えるような気がした。
 何とか気持ちを立て直して、何とか生きていってほしいと、その日潤子は切実にそう願った。



……第5章につづく……

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