見出し画像

劣等感とそれをかき消すための逃避行について

安直に言葉を選べば、悔しかったし悲しかったし、とにかく逃げ出したかった。逃げないと、身動きが取れなくなってしまいそうだったから。体が動くうちに、その場所から離脱して、次の場所に行きたかった。
そして、いろんな言い訳と逃げ道を探して、それを無理やり前向きな思考法に落とし込んで、入学を決めた。むろん、それもまた事実だったし、当時、僕の中ではそれこそが真実だった。それを、周りにも真実だと思い込ませるような語り口をしていた。

本文より

けれど、少し違う部分もあって、それはずっと、言いたくなかった。言えなかった。でも、もうそろそろ、ほんとうのことを書いたっていい。あと一週間で、もう23だぜ。小さい頃、オトナはなんとなく23くらいからだな、と思っていた。オジサンっていうのはそれくらいだな、みたいな。
(6/25(日)は僕の誕生日!どうぞよろしく!)

だから、長々と、悠々と、綴ろうと思う。
少し前の劣等と、それから逃げていたこと。

───少し、前の話ではあるがまた性懲りもなく自分語りをしたい。

2023年4月1日。
近大の入学式で、在学生代表としてスピーチをした。


準備期間は約半年。職員の方、総合エンターテイメントプロデューサー・つんく♂さん率いる演出グループの皆さん、パフォーマンスを担当する学生のみんな、そして少なからず応援してくれる友達には多大なるご協力をしていただきながらの本番であった。ありがとうございました。
入学式は、概ね大きなトラブルもなく成功。まあ色々アドリブを入れたりして演出担当の職員さんには怒られたけれど。すみませんでした。たぶんこれが届くことはないと思うけれど、卒業までには、もう一度会って、しっかりお話して、1枚くらい記念写真でも撮りたいなと思う。

式にサプライズ・ゲストとしていらっしゃった霜降り明星せいやさん・コロコロチキチキペッパーズナダル(敬意と親愛をこめて、いつも通り「さん」はつけないでおきたい)にはそれなりにイジられ、ナダルさんに関してはその後も自身YouTubeや冠ラジオ番組で僕の話をしてくださっていたらしい。
ありがたいことだと思う。実際僕はただのファンとしてかなりナダルが好きで、特に「わざと狂人を演じる彼」の輝き方は尋常ではない。めちゃくちゃおもしろい。ぜひ見てほしい。

学内でも、たまに「入学式の人ですよね!」とか一年生に話しかけられたりする。たまにだけれど。
少し面白かったというか、そんなこともあるのか・・と思ったのはなんだかギャルっぽい──この言葉、まだ死語ではない──後輩に

「え?ちょ待って、ようこそニキ?」

と半開きの口を開けながら言われたことである。あんぐりしたいのは僕も同じだ。

「ようこそ、近畿大学へ」「ようこそ、日本一自由な大学、近畿大学へ」スピーチ冒頭と締めに告げた言葉のせいで「ようこそニキ」と一部の新入生の中では呼称されているのか・・ネットスラングデビューした先人たちはこういう気持ちなのか・・と思いを馳せたのも、もう少し色褪せた記憶の中の話。

まあ、大学の行事のおかげでそんな「プチ・時の人(ブームは過ぎ去った)」となっていた僕ではあるが、大学への期待値が高かったのかと言われれば、決してそうではなかった。あけっぴろげに言えば不本意入学というか、誇らしい入学ではなかった。

少し時を遡る。


高校時代に第一志望だった大学には、推薦も含め3度落ちた。
↓それまでのお話

安直に言葉を選べば、悔しかったし悲しかったし、とにかく逃げ出したかった。
逃げないと、身動きが取れなくなってしまいそうだったから。体が動くうちに、その場所から離脱して、次の場所に行きたかった。
そして、いろんな言い訳と逃げ道を探して、それを無理やり前向きな思考法に落とし込んで、入学を決めた。むろん、それもまた事実だったし、当時、僕の中ではそれこそが真実だった。それを、周りにも真実だと思い込ませるような語り口をしていた。

僕の出身高校は、巷では成長著しい進学校、と噂されるような学校だった。すこし中学受験やら高校受験の知識があれば、大概の人は知っているような。(最近、僕の高校同期が同じ大学内にいることを知った!4年にもなって!びっくり!会えてよかった!!)
当然、新しくできた級友や先輩はなんの悪意もなく聞く。

「なんで近大にしたん?」


口では「最終的には近大が第一志望だったんです」と言っていた。でも、それはそう言っていないと「自分の中での辻褄が合わなかった」から。自分の劣等を微塵も感じさせたくなかった。

えー、なんで?当然の疑問だ。
「スタンフォードで教えていた客員教授の方の下で勉強したかったんです」
「ここなら、家業の農家を経営する際に必要になる“経営”について実際に企業の方と関わり合いながら学べると思ったからです」
だとか、言っていた。お前大学1年から就職活動みたいなことしてんな。

だが、この言葉にまた僕は苦しめられることになる。


自分が言ったからには、実現させないと。
まずは教授に会いに行った。コロナのためZoomでだが、インタビューをし、記事も書いた。その後様々な相談にも乗っていただいた。

コロナのおかげで1年次、友達は全くできなかった。だから、友達と遊ぶこともなく「経営」を学ぶためにビジネススクールに入学。そこで知り合った仲間と「日本語学校への教育コンテンツを提供する事業」を起業。せっかくの一人暮らしさせてもらった家は、ただ作業を一人で黙々と行い、飯を食い、寝るだけの独房となった。
取引先の日本語学校に営業を永遠にかけ続ける日々。かけてもかけても断り続けられる日々。授業とは違い「最終」レポートなどない。頭がおかしくなりそうだった。スクールの最年少MVPなど確かにうれしいこともあった。けれど、どう考えたって大変だと感じたことの方がはるかに多かった。

正直しんどかった。つらかった。やめたいなと何度も思った。
でも、やめることなんて、できなかった。

それをやめてしまったら、僕が今ここにいる意味がなくなってしまうから。


出来ることは何でもやった。「二代目以降の個人事業主の集まり」「若手経営者のパーティ」「よくわからないベンチャー企業のインターン」出席可能なイベントにはすべて出席した。
ちなみに息抜きのつもりでダイビングの資格を馬鹿の一つ覚えみたいに取ったり──これでびっくりするくらい、それまで貯めていたバイト代がなくなった──、新しく始めたスポーツ・スポーツチャンバラの練習に土日を全振りし、たまたま全国大会に出たりもしていた。

あの頃、なんだか僕は生き急いでいた気がする。
あの時、僕は一体何と戦っていたんだろう。何から、逃げていたんだろう。

たぶん、周りの目に晒されていることに対して、だと思う。いや、本当のところ、実際は誰にも見られていなかったんだと思うのだけれど、自分自身が「何かをしていること」を、周りに見てほしくて、けれど評価を下されたくなくて動き続けていたんだろうなと、今になって考える。
止まったら、やめてしまったら、そこまでの結果で、人は「それ」を評価するような気がして。

コロナのおかげで、そういう1・2年を過ごした。

───
そうして。

3年生になって、少しずつ「友達」ができてきた。大好きな後輩も、先輩も。

そういう「僕が何をしようと、僕を好きでいてくれるんだろうな」みたいな人たちのおかげで、僕は「動き続けなければ評価される」という呪縛から解放されたんだと思う。

僕がとても好きな先輩に言われた言葉で、一つ紹介したい。

「あなたの価値は、その程度のことでは下がらない」

先輩より

その言葉は(失礼だけれど、普段のその人が口にするには)あまりにも美しくて、ハッとした。心に刺さった。刺さったので、僕もたまに後輩相手に引用したくなる。気恥ずかしくてまだ使えていないのだけれど。


結局、持つべきは友だ。


などと、サウナ後のコンビニの発泡酒やら、たまに食べたくなる二郎系ラーメンやらに付き合ってもらったとき、安易に思うのだ。

ただ、呪いに縛られていた1・2年を振り返っても「これは、これでよかったのかな」とも思う。当時の僕からすればたまったものじゃないはずだけれど、それもそれで、自分で選んだのだから。
そのおかげで、スピーチでもそういう話ができたんじゃない。

中学時代に、アメリカの大学に行きたいと思って
高校時代に、それをあきらめて日本の有名大学を志望して
浪人時代に、そこに三度落ちてアメリカの大学で教えていた人のもとで学びたいと思って
大学一年で、その人に会って、農家の経営のため企業の方と関わりたいと思って、ビジネススクールに入って、

自分でも起業して、企業とコラボして商品作って、また違う先生のゼミに入って、入学式で登壇して、今はすぐに農家を継ぐのではなく、企業に就職したいと思っている。

正解は、時に変わる。
やりたいことは変わっていく。でも、なりたい姿、は変わらない。

というのは、最近聞いた言葉だ。ある企業の人事の方が言っていた。
まあ、これは僕もそうだと思う。だから、なりたい姿だけは持っておくといいと。
やりたいことはできないこともあった。けれど、なりたい姿、こうありたい像、には近いところまできているんじゃないか。

もし、あなたがいま、僕と同じように劣等感に苛まれているなら、あなたの手帳か何かに、なんとも偉そうに書き殴りたい。

劣等感は、なくなることなんかない。けれど、遠くに行くことで忘れることはできる。限りなく透明に近い色まで薄めることだって。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?