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あんまり頑張らない方が、長くはやれそうじゃないかということについて。

僕は柔道歴15年,黒帯,弍段の柔道家である。


───なんてカッコつけてみる。本当はたまたま、とてもとても、ゆるゆる続いているというだけだ。

柔道を始めたのは幼稚園の年長さん。「なんかスポーツをしなさい」という祖父の言葉がきっかけだった。
たった4人しかいない幼なじみの男の子が柔道教室に通っていたことを知り、見学に行ってみた。

なにこれ。めちゃくちゃおもろい。

本気でそう思った。柔らかい畳(基本的に、小学生が練習するような柔道場の畳は普通のものよりも弾性がある)の上で、ただ,でんぐり返しをしただけだったけれど、それが楽しくて仕方なかった。

当時,僕は極度の人見知りだった。自分から友達を作るということができなかった。
そんな僕の引っ込み思案度もお構いなしに、道場の子どもたちは話し掛けてきた。「なんで柔道やろうと思ったん?」

「試合で勝ちたいから?」

「強くなりたいから?」

その時の5歳児の僕にはない発想だった。「勝つ」ことが偉いだとか、勝つことがかっこいいだとか、そんなこと思ってもみなかった。そもそも、今まで勝負をしたことがなかった。

ええっと、、体力作り、かな、、。

なんて面白くない解答なんだろう。スカすことがかっこいいと思っていたわけではなかったかれど、少し「大人みたいなことを言う自分」に酔っていたきらいはあった。それは今でも変わらない気がするけれど。うん、五つ子の魂百までだな。まだ22だけど。

とにかく彼ら彼女らは優しかったし、面白かった。ぜんぜん面白くないことばかり言う僕を受け入れてくれた。
特にアホ三人衆(辰也、大誠というおふざけものと、どうしてか真面目な僕)は、よく師範の梶谷先生に怒られた。
内訳は「彼らが僕を笑わせて、笑い声を出した僕が怒られる」だった。要領の悪い小学生は先生が前に来てもニヤけてしまったからだ。でも別によかった。みんなと一緒にいると楽しかった。

まあただ、練習となるとボコボコにはされた。
僕は体がとても小さかった。運動神経もよくなかった。足だけは速かったけれど、柔道で走って活躍できるシーンはあまりない。

なかなか勝てない。女の子にさえ負ける。そんな自分が嫌になった。嫌で嫌で仕方なかった。

話は変わるが,僕は中学受験をした。僕達のような田舎の学校でそんなことをするのは僕くらいだった。
それを機に、僕は柔道をやめようと思った。
「また柔道やろうな!」とたくさんの人に言われたが、絶対にせんわ!わーははは!と思っていた。

めでたく第一志望の中学校には入学することになった。心機一転である。サッカーなんかもモテそうでいいな。

そして、当然のように僕は柔道部に入った。


なんでやねん。

1人ツッコミをかましてしまうほどおかしな話であるが、もちろんボケのつもりで入ったわけではなかった。そんな中高6年間─僕の母校は中高一貫校だった─をかけた壮大なボケなど出来るか。
先輩たちは優しかったし、久しぶりの柔道場はなんだか愛おしく思えたし。顧問の先生が、僕の小学校時代の道場の先生と知り合いだったし。運命的だと思った。(今よくよく考えれば柔道指導者の世界などそれはそれは狭いもので、知り合いなんて当たり前なのだけれど。)

そんなこんなで僕の青春は、筋肉と坊主頭と柔道に大体、捧げることになった。

部活は本当に楽しくて、高校生と同じ練習メニューをとにかく真面目に、本気に取り組んだ。

とはいえ、小学校の頃から体格だってそう変わっていなかった。勝てるわけないよなー、と思いながら中学2年の時,合同練習で小学校の時,何度やっても負け続けていた友達と試合をすることに。

あっさり勝った。

この頃から、柔道が楽しくなってきた。後輩もできて、慕ってくれるのが嬉しかった。
僕の母校は部活動の練習は「週3回」と定められていた。
あっさりと書くが,これは他の公立中学の約半分、場合によっては三分の一程度の練習時間だ。

体も技も未発達の中学生にとって,練習時間はそのまま試合での強さとして顕在化される。
正直、県大会などでは黒星ばかりを稼いでいた。

高校になると、勝手に勝てるようになった。

中学時代、すごく強かったメンバーは柔道をやめたり、違う場所にいったりしたからだった。高校から柔道を始める初心者も増えた。初心者には負けるわけがなかった。

継続は力なり、という。


僕も好きな言葉の一つだ。積み重なった努力は必ず結果となる,みたいな。
柔道に置き換えれば,頑張っていれば、凡人だって,いつか天才にも勝てるようになる、ということだと思う。
でも、こう考えることもできる。
特に頑張らなくても,普通に続けていれば,勝手に天才はそのフィールドを去って、そのフィールドでは「凡人」が一番になる。誰よりも長く続けていれば、自動的に順位がすり替わる。
それを力と呼ぶのはあまりに薄っぺらいかもしれないけれど。

───
中高時代は光のように過ぎ去った。
高校2年時の秋,県大会予選を6位で通過し,近畿大会に出場した。でも、近畿大会では太刀打ちができなかった。
高校3年の夏・インターハイまで続ける同期がほぼ全員だった。でも、仕方なかった。学校の方針なのだから。

すこし、悔しさというのか、やり切れなさが残っていたような気がする。
その大会を最後に引退して高校3年の1年間は勉強ばかりした。
僕は浪人したから,さらに1年間同じことをした。
そして、合格して、合格の報告を梶谷先生にしに行った。
お祝いと労いの言葉をもらった。嬉しかった。

「じゃあお前、またうちの練習もよかったら見にきてくれんか」

ーわかりました。


高校時代、必死に努力してインターハイまで出場した選手たちは、高校でやり切ったわ、といって柔道をやめていった。
もちろんオリンピック選手レベルになるような怪物たちは大学でも柔道を続ける。でも、そんな人たちはひと握りだ。もちろん彼ら彼女らは、すごい。スゴイ以外の言葉が見つからない。
でも僕は、今回は、原石として発見はされない、メディアにも取り上げられない、その他大勢にスポットライトを当てたい。

ひとつ、ことわっておきたいのは、燃え尽きることが決して悪いことじゃないということだ。
短期間で熱くなると、短期間で覚める。だからなんだというのか。
僕にだってそういう経験はある。

でも、僕は「長く続けたい」と思う。「これ、めっちゃおもろいやん」と声高に叫んだ幼い僕に、

君は間違っていなかったと、語るために。

あの日の苦痛も苦悩も無駄ではなかったと、証明するために。
ーーー

それから。
奈良県柔道指導員の中ではかなりお偉いさんの我が師匠・梶谷先生の推薦もあり、今は県下最年少の指導員として全日本柔道連盟に登録されている。

柔道は勝ち負けが明確に決まる競技だ。確かに、勝たなければ面白くないかもしれない。


でも、続けること・練習をすること・試合に出ること自体に意味はないなんていうのは暴論だ。

小学校の子どもたちを指導するのは時に楽しく,時に悩ましい。
彼ら彼女らは僕達と同じようで,少しずつ違っているから。

指導員になって最初の練習で、君たちにはこう言った。

今はなかなか勝てない人もいると思う。でも大丈夫。続けていれば,必ず、少しは勝てる時がやって来る。君に勝っていた天才の多くは、この競技に見切りをつけて、すぐにやめてしまうだろう。その時が来たら、一番強いのは、きっと君だ。

その時まで、あまり頑張りすぎないで。
せっかくがんばっている自分を、どうか嫌にならないで。


君たちこそ、天才の卵なのだから。


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