白と黒の、冷たくて厳しい世界。
『PPPPPP』という、ピアノを題材にした漫画を読んだ。主人公は天才ピアニストの息子。他に6人の兄弟(七つ子)がおり、彼ら彼女らは主人公を除き例外なく全員が「映像的な音楽」を創造できるほどの天才。さて、凡人の主人公はそんな天才たちに勝てるのか、みたいな漫画だ。
僕の家族といえば奈良県の秘境・田舎の農家、なのだが。
実を言うと、僕の家系は音楽一家でもある。
物心ついたころから家の中では、母の演奏する音が聞こえた。
叔母、伯母どちらもがピアノ奏者で、ピアノの先生を職業にしていた。
僕の家、いとこの家、母の実家であるおばあちゃんの家、どこにでもピアノがあった。
そんな環境で育てば、別に意識しなくても鍵盤は叩くようになる。
簡単な曲なら、楽譜がなくても耳で覚えて弾けるようになった。
そんな僕を大人たちは、もちろん囃し立てた。
「天才」「神童」「モーツァルトの生まれ変わり」(最後は言われていない)
嬉しかったが、当時まだ5歳くらいの僕の辞書にその語彙は無かった。
音楽を聞くのは好きだった。音を覚えるのも、それを音符に変換するのも。
ただ、右手の動きと左手の動きを組み合わせるのが苦手だった。
体を操るセンスが、同世代のピアニストよりも「なかった」のだと思う。
ピアノを教える時だけ、本当に母は厳しかった。
音大さえ目指し、マンドリンを大学から始めるような(僕から見れば)音楽のプロな母にとって、幼稚な僕の指運びは「なぜ出来ないのか」としか映らなかったはずで。
間違いなく、愛ではあったと思う。
「もっと大きく手を広げなさい」
もっと手を広げたら、綺麗な音が出るはず。
「もっと強く、跳ねるように鍵盤を押しなさい」
もっとスタッカートを意識したら、余韻の残る音が出るはず。
「もっと、上手に指練習をしなさい」
もっと上手に音が弾けたら、あなたはもっと楽しいはず。
いつも優しいお母さんは、僕にとって、ピアノの前でだけ冷淡な先生に思えた。
痛いよ。冷たいよ。
象牙の鍵盤は固くて、冷えていて、悴んだ手では押すのも辛かった。
それでも必死に白と黒の歯を叩き続けた。母の大きな手に撫でられたくて。
だいたい、一年に一度ある発表会は楽しかった。とても緊張したけれど、うまく演奏できたらみんなが褒めてくれた。もちろん母も。
小学2年の会だったと思う。
トルコ行進曲/モーツァルトを弾いた。今までで、一番上手く弾けた気がした。
拍手も喝采も、花束ももらった。
うれしかった。
ふつう、こういった発表会は年齢の若い順に出番が振られる。後になるにつれて上手な演奏を聞かせる会だからだ。
でも、たまに、その「年齢順」が入れ替わることがある。激ウマの8歳児と、普通の10歳なら、激ウマの8歳児の方が順番は後になる。
僕の前に弾いていた、僕より年上の人は、もっともっと練習するんだろうな、と思った。
僕ももっと練習しなくちゃな。
でも練習、いやだなあ。
普段の生活に戻ると、期待値が高くなった分、私の先生の指導はヒートアップした。少しのことでは誉められなくなった。代わりに増えたのは叱咤の言葉だった。
怖かった。どうして褒めてくれないの。僕は、ママが大好きなのに。
2歳下の妹はよく褒められていた。
なんだかそれが、僕には「お母さんは、僕はかわいがってくれないんだな」という気持ちにさせた。僕が嫌いだから、怒るんだ。
そう思うと、もうピアノを弾く意味なんてないなと思った。
練習しても練習しても、結果が一緒なら。
若干10歳は、天才でいることに疲れた。
ただピアノを弾ければそれでよかった。確か、僕はピアノが好きだった。でも正直、それもよくわからなくなっていた。もういい。もういいよ。こんなにしんどいなら、弾けなくていいよ。
ピアノをやりたくない、辞める、と母に告げるのは怖かった。でも、お願いだから、優しい母のままでいて欲しかった。
それから。僕はピアノをやめた。
家にある立派なグランドピアノ。小学校の4年間、見向きもしないようにしていた。
僕の一件があってから、母はピアノの指導もとても優しくなったようだった。妹たちはのびのび楽しく、アニメの主題歌なんかの好きな曲を弾いているようだった。
でも、僕は結局、音楽が好きだった。
音楽を聴くこと。なんなら、妹たちの演奏を聴くのは喜びだった。
中学一年のとき、インフルエンザに罹って暇な時間が膨大にできた。(たった五日とかそれくらいなんだけれど、中学生にとっての五日間はとてつもなく長かった。)
なんとなくギターを買ってもらって、なんとなく独学で始めてみたりした。
自分の好きな曲を弾いてみる。
ピアノではクラッシックしか弾いたことのない僕にとって、それはもはや別物だった。
楽しいなあ。
今でもたまにギターは弾く。アーティストの歌を聞くのも、ピアノの演奏を聴くのも大好きだ。
母とも仲はいい。
でも、たまに思い出す。
どれだけそれが厳しくて、冷たい世界であったか。
全てのピアノ奏者に、敬意を表して。
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