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43°のウイスキーと嫌いになれない上司

雨の日は在宅ワークがうれしい。うれしいので今日も日報を書く。電球色の部屋。住宅街の深夜は、雨の音くらいしか聞こえない。心静かな夜は昔話を書きたくなる。これは実話、いや思い出に基づいたフィクション。思い出はすべてフィクションとも言えるだろう。都合が良い。登場人物は仮名であったり、そうでなかったりする。では、2700ケルビンの仕事部屋から。今夜の日報です。

無償で参加する競合プレゼン。こう聞くと同業者は、胸がキュっとなるはず。採用されなければタダ働き。サービスである。成長過程の制作会社は、けっこうこの類の依頼が多いはず。私たちの会社も例に漏れない。

本番のプレゼンテーションまでに、三度の提案が求められている競合プレゼンに参加している。これは初めての体験。通常プレゼンテーションはわずか一度の短期決戦。クライアントの考えと合わないなら不採用。縁があれば採用。その合意の先に、ご要望を受けてのブラッシュアップにつづく。

三度の提出は、その都度チェックバックを受けてブラッシュアップを求められる。たしかに精度が向上する。すばらしいやり方だ。ただしクライアントにとっては。不採用になれば、この長期の労働はパー。その上「このレベルでは次の人に見せられない。」なんてダメ出しを数回受ける。ストレートなご意見を受け止める。もう一度書くが、お金は一銭もいただいていない。採用されたとしてもお断りしようか。その前に採用されるプランをつくらないとダサい。むちゃくちゃダサい。格好よく去りたいものだ。

20年前。新卒で入社した印刷会社で、モトさんという上司についた。入社3年目だったか。僕は26歳ごろ。彼はたしか40歳前後。豪放な営業部長で、平たく言うとムチャクチャなおじさん。「今日中にこの仕事やっとけ!」「おらぁ!朝まで飲み行くぞ!」「てめえ、やらせろ!」
ハラスメントのデパート。時代が彼を助けた。今なら完全にアウトである。ただ僕は不思議とモトさんのことを嫌いになれなかった。

飲みに行くと、一人2杯生ビールの大ジョッキを強制的にオーダーさせられる。運ばれてくると、モトさんは店員をその場に待たせる。何をするのかというと、その大ジョッキをまず1杯一気飲みして、空いたグラスを定員に渡す。そして新しい大ジョッキを1杯注文する。
「おい、クリ!何してる!」当然、僕もやらなければならない。そして次の大ジョッキが来るまでに、もう1杯の大ジョッキを飲み干す。これがルール。店員のうんざりした顔を横目に、これを泥酔するまで繰り返す。飲めない人にとっては地獄。僕はお酒に強かったから、なんとかついて行けた。
そんなむちゃな飲み会だったが、モトさんは飲みの場で僕の話をよく聞いてくれた。「ふざけたこと言ってんじゃねえ!」と言いながらも、小僧の無礼も受け止めてくれる度量があった。と思う。もしかしたら、こちらが酔っていただけかもしれない。とにかく、言いたいことを受け止めてくれていた。ビールの一気飲みはその対価として十分だった。

仕事の無茶振りも、嫌いじゃなかった。それをやってのけるやり甲斐があった。仕事ぶりが認められて信頼を得られるようになった。ぼくはルールを守りながら真面目にコツコツこなしていくことが苦手で、問題のある社員としてレッテルが貼られていた。それを少しずつ剥がしてくれたのがモトさんだったと思っている。深夜に渡る仕事も珍しくなかったが、よく朝まで付き合ってくれた。モトさんはほとんどイビキをかいて寝ていたけれど。

そんなある日、モトさんの意外な一面をみることになる。私たちが担当していたクライアントは業界の最大手。時代はまだ殿様商売を許していた。クライアントが言うことは絶対。電話一本あれば休日でも会いに行くし、焼きそばパンを買ってこいと言われれば、作ってでも届けただろう。小さな企業は、大きな王様に従うしかなかった。もちろん接待漬けの日々である。あの日も、モトさんは重要なお客さまを接待していた。

そのラウンジには、同じクライアントの別のお客さまを連れて入店した。店の奥には、よく知った顔。モトさんがいた。よく接待で使っていた店だったから不思議ではない。だが、あまりみたことのない表情。モトさんは両手を膝に乗せ、俯いている。暗がりでよく見えなかった上座には、エラそうな態度のエラそうなお顔が。「あっ、」まずいなと思った。ぼくのようなペーペーでは話しかけられないクラスの上席の方だった。だが見てしまった以上、挨拶には行かねばならない。すると、隣に座れと促された。

ソファにふんぞり返るクライアント。俯くモトさん。長い沈黙がつづく。この日の運の悪さを呪ってみてもはじまらない。「元気ないですね〜」などとモトさんを茶化してみたものの、状況が変わることはなかった。気まずい。しばらくすると、クライアントが一杯の飲み物を差し出してきた。コップに波波と注がれたウイスキーの原液だ。これを「一気で飲め」と言ってきた。「そしたら話を聞いてやる」そう続けた。
どんな対応をするのか見守っていると、クライアントはモトさんからグラスを取り上げ、モトさんの頭にウイスキーをかけた。クライアントのその薄ら笑い顔は、今でも忘れることはない。

「ビールおごりますから」その帰り、ぼくはモトさんをもう一軒誘った。たぶん後にも先にも、ぼくから誘ったのはこのときだけだったと思う。社内では言いたい放題のオラオラ男が、会社のために泥水を飲んでいる。部下30数名のためにクライアントの言いなりになっている。そんな彼の背景を知って、なんだか切なくも、愛おしくなった。ビールが運ばれてきた。ゆっくり飲み直そうとしていると「なにやってる!早く飲み干せ!」とモトさん。いつもと変わらない飲み会がそこにはあった。「さっき一気できなかった男がなに言ってるんすか」と軽口で応える。朝日が登るまで飲んだのは言うまでもない。

その後、モトさんは大きな病気になったのをきっかけに会社を辞めてしまった。あんな性格だから、役員たちと上手に付き合えなかったんだろう。政治家になるんだと豪語して辞めていった。社内政治が苦手だった男が、送別会の挨拶で言い放った。やっぱり面白い人だ。あれから10年以上経つ。議員にモトさんの名前をまだ見つけられない。ただ、いまも元気なのは間違いないだろう。


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