「真面目」なアカウントと多様な自分。
「真面目」なツイートは別アカで。
「twitterアカウントは一つにすべきか?」
私が大学生の時にゼミで先輩が出した問いだ。具体的な言葉や内容は忘れてしまったが、ニュアンスは以下のようだったと思う。
趣味や日々の生活についてつぶやくだけだったが、ゼミに入って社会問題についてつぶやくようになった。このときに「普段用のアカウント」と「ゼミ用アカウント」は分けてもよいか、それとも一つに統合すべきか。
私はゼミに入る前からツイッターを使い、フォロワーはリアルでも知っている高校大学の友達やサークルの先輩後輩が多かった。また、基本面倒くさがりなので、アカウントを複数使うことはあまりしていなかった。(一つだけ趣味用があったが、放置状態だった)
だから、ゼミに入っても最初はアカウントを分けずに、普段から使っていたアカウントでゼミのつぶやきもしていた。「真面目なツイート増えたね」と言われることはあったが、ツイートの内容に興味を持ってくれる人もいて、ネガティブなことはほとんど言われなかった。たった1人を除いて。
「あれさ、ウザいからやめてくんない?」
ある日、別のサークルの仲が良かった先輩から言われた。特に責め立てるわけでもなく、脅すわけでもなく、単純にそう思ったから言ったという感じだった。それでも、直接面と向かって言われたから、私には効果テキメンだ。しばらくして、私はそれまで使っていたアカウントとは別に「ゼミ用」アカウントを作ることにした。
「普段用」アカウントなんか要らない。
「ゼミ用」のアカウントで、私は好きなだけつぶやいた。
社会課題に対して活動しているゲストの話を聞くのも、ゼミ生同士で自分事として話し合うのも楽しかった。そして何より、これまでのリアルで知っている人以外の人たち(NPO代表や大学教授、ソーシャルな発信をしているメディアなど)をフォローする事で、世界が広がった感じがして面白かった。元々正義感が強いタイプだったので、ゼミの話にどんどんハマっていった。
次第に「普段用」のアカウントでつぶやくことが減り、タイムラインさえ見ない日が増えた。そこで私は「普段用」を消して、「ゼミ用」のアカウントのみ残すことにした。もちろん「このアカウントは消すので○日までにこのアカウントをフォローしてください」というツイートもした。だが、全員に移行してもらおうとは思っていない。真面目なツイートも普段のツイートも受け入れてくれる人だけ移行してくれればいいと思っていた。そうして、私のツイッターライフはとても快適になった。
アカウントを統合してから、私のつぶやきはさらに増えた。
「この記事を読んで自分はこう思う」と真面目に自分の意見をつぶやくこともあれば、「今日も仕事疲れた」というくだらないこともつぶやいた。誰も真面目なことをつぶやこうが、くだらないことをつぶやこうが、文句を行ってくる人はいない。むしろ「私はこう思う」と一緒に議論してくれる人もいた。ツイッターはとても楽しく、今も私の生活の一部である。
アカウントの中の"私らしさ"
だが、最近はそんなSNSで少し息苦しさを感じるようになった。
くだらないつぶやきも、真面目なつぶやきも同じアカウントでしている。そこに対しては特に問題ない。
息苦しさを感じるのは、例えば趣味についてつぶやくとき。
誰かの役に立つものでなく、本当に自分のためだけのつぶやきである。「仕事疲れた」ということはつぶやけるのに、趣味のことに関してはここでつぶやいちゃいけないと無意識に思っていた。
私のアカウントをフォローしている人は、真面目な私を知ってフォローしている。そこで私が趣味の話なんかつぶやいたらウザいかもしれない。
そんな意識が自分にあったと気付いてから、SNSのアカウントが1つしかないことに、とても息苦しさを感じた。
そんなことを思っているときに、タイムラインで驚きの記事が飛び込んできた。「恋愛」「友情」がメインのコンテンツをつくるクリエイターの「わたらいももすけ」さんが、酒を飲み散らかし、料理は下手で、めちゃくちゃなように見えるYouTuberの「こんびにこ」さんと同一人物であるというカミングアウトだった。
"わたらいは、純粋無垢で悪いことなんか一切しない。
そんなわたらいでいることが僕にとって耐え難き苦痛になってしまったのです。"
"そんな中で、ほどなくして作ったのが「こんびにこ」でした。"
”期待されていたキャラを演じなくてもいい。そんな環境は僕にとって願ってもないものでした。”
"僕にとっては「こんびにこ」も「わたらい」も入れ物であり、アウターのようなものです。その日の気分でダウンジャケットを着ることもあれば、ダッフルコートを着ることもある。その日、自分が一番自分らしく生きられる人格を選ぶ。そんな感覚でしょうか。"
"話は少し変わりますが、人間は多面性を持つ生き物です。寂しがり屋だけど、一人の時間が大切。サバサバしてるけど、恋人の前では重たくなる。皆に優しいけど、皆に等しく冷たい。"
"それらは相反するものですが、一人の人間に複数存在しうるものです。"
この記事を読んだとき、とてもホッとした。
ああ、私だけじゃないんだと思った。もちろん私はそんなに有名ではないし、フォロワー数も多くはない。それでも実名で発信し、面識がある人がフォローしているという環境で、「こんなことをつぶやいたら”私らしく”ないだろうな」と思う息苦しさはあった。
その”私らしさ”は誰かから見た”私らしさ”だった。
別に誰からも期待はされていないし、”私らし”くないことをつぶやいたって誰も非難はしない。それでも、そのしがらみを自分で作っていた。
「普段用」のアカウントを消したとき、もしかしたら私は「真面目」以外の側面を捨てたのかもしれない。
しばらくして、私は全く誰のためにもならないアカウントを作った。自分の他の面を取り戻すために。
多様な側面に合わせて、切り分けることは悪くない。
SNSで他のアカウントを持つと「裏アカ」と呼ばれることがある。
「表」のアカウントで他の人のイメージする人格でつぶやき、「裏アカ」ではそうじゃない側面を見せる。いつものイメージや本来のアカウントとは違うから「裏アカ」。
だが、人は表と裏という二面だけではない。
そして、どちらかが正しいとか間違っているとか、表とか裏とか、そんな順位付けもない。どんな側面も自分であることには変わりない。
「裏アカをわざわざつくるなんて」という人もいるかもしれない。
それでも、インターネットが身近になり、外出を控えるべき今はストレスになることもある。「ずっと」真面目な話、「ずっと」趣味の話、「ずっと」くだらない話、をするのには疲れてしまうことだってあるのではないだろうか。
人間はたくさんの側面を持っている。
仕事仲間には恋人とのやりとりを見られたら恥ずかしいだろうし、いつもふざけ合う仲間に真面目なところを見られたら冷かされるかもとドキドキするかもしれない。どんな面でも他の人に見られていいと思っている人は少ないだろう。
だから疲れたら、鍵をつけたり、匿名にしたり、リアルな知り合いには誰にも教えないアカウントを作ってみるのもいいかもしれない。自分の取り戻したい側面に合わせて、アカウントを作るのは何も後ろめたくなる必要はないのだから。