『空海の風景』第2章
前回は「第1章」を取り扱いました。
今回は、司馬遼太郎作『空海の風景』より、その「第2章」を取り扱います。まずは、読書会当日に配ったレジュメ(PDFファイル)を、以下、ダウンロードできるように、リンクを貼っておきます。
上記「レジュメ」を、以下、引用して参りながら、説明を加えたく存じます。
この第2章は、少年時代の「空海」について、小説として切り込もうという、作家、司馬遼太郎の「試み」である。
上記、「人間の児(こ)が異様な利発さを持つという場合、古代から中世にかけてのひとびとはそこに神に近いものを感じた。」とは、言い得て妙である。空海は、その同時代において、既に、周囲からは、天からの「授かりもの」として、神に近いものとして、受け取られていたのではなかろうか?というのが、司馬遼太郎の指摘するところである。
それが証拠に…という訳ではないのだが、次の文章が、これに続く。
ここで云う「ついには後世にまでつらぬかれるにいたる」とは、四国88ヵ所霊場を巡る、同行二人、そこにある「空海」の姿を示唆してのことであろう…日本で「巡礼」の地となった、いわゆる「お遍路」は、空海へのゆるぎなき、たゆまなき信仰なしには考えられない…そこに日本全国から人が集まるのであるから、やはり、空海とは、その幼き頃に「とうともの」であったというのも、司馬遼太郎ではないが、「奇妙というほかはない」であろう。
さらに、本文は続く...。
ここで、司馬遼太郎は、空海を研究分野とする、仏教学者などの先達に、まるで、あらかじめ、これが「小説(フィクション)」であると、ことわるかのように記しながら、論を進めてゆく…。
ここでの司馬遼太郎による密教理解は、少し荒っぽいながらも、核心をついていると思われる。「人間が「なま」のままで、というより「なま」であればこそ」という人間賛歌が、密教の教理にはある…というのを、司馬遼太郎という作家は、その「即身で成仏ができ」という文句より感じ取ったのであろう。もしかすると、司馬遼太郎は、空海の著書である『即身成仏儀』に目を通しての記述かもしれないが、即身(司馬遼太郎の言葉を用いれば「なま」のまま)で成仏ができる…そのような体系的な「かたち」をもった「教え」なのだ…ということを、やんわりと示唆して済ませている。
引き続き、文章を見てゆこう。
上記で重要なのは、「かれが仏道に入ったのはいわば学科の転科にすぎず、中世の爛熟(らんじゅく)期に日本にあらわれてくるひ弱な厭世的情念などは、この精気のあふれた男にはなかった。」という下りであろう。
つまり、空海の出家には、厭世的情念(いわゆる「世捨て人」になるような心の素地)というものは、微塵もなかったであろう…という指摘である。
空海は、人生の難問を解こうとして、当時、その唯一といっていい選択肢だった「仏道」を選んだ(その詳細は、空海自らが執筆した『三教指帰』に詳しいが…)のである。
空海にとっては、官吏登用のための機関であった大学は明経科において学んだ「儒教」とは、形骸化され、もはや儒教が、かつて「古儒」と称された頃の生彩を欠いて、日本に渡来したそれは、空海にとっては、さも、つまらぬものに読めたに違いなく、はたや老荘思想においては、ここ日本では、本国中国のようには発展しておらず、その経典のみが、書物の情報だけが入ってきているにすぎず、空海も、そんな日本における状況下において、これを論じており…つまりは、仏教より、他に、一身を投じて、自らの人生をかけて、その「教え」を極めんと欲するに足る「受け皿」が、なかった…それを司馬遼太郎は、こう述べている。繰り返しになるが、以下、もう一度、引用しておきたい。
こうして、今でいうところの「官僚」になる、世俗の出世コースを外れて、私度僧(※国家からは認めてられいない、自称「僧侶」)にドロップアウトしてゆく、おそらく、空海の後ろ盾となっていた血族たちが血相を変えたであろう出来事が、このあと、展開してゆくのであるが、それは次章以降、第3章以降に譲りたく思います。