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『空海の風景』第2章

前回は「第1章」を取り扱いました。
今回は、司馬遼太郎作『空海の風景』より、その「第2章」を取り扱います。まずは、読書会当日に配ったレジュメ(PDFファイル)を、以下、ダウンロードできるように、リンクを貼っておきます。

上記「レジュメ」を、以下、引用して参りながら、説明を加えたく存じます。

空海の日々は、なお少年であることが続いている。

『空海の風景』第2章より

この第2章は、少年時代の「空海」について、小説として切り込もうという、作家、司馬遼太郎の「試み」である。

かれの少年期は幸福でありすぎるようであり、むろん幸福すぎることは少しも悪くはない。
「父母、偏(ひとえ)二悲(いつくし)ミ、字(あざな)シテ、貴物(たふともの)ト号ス」
と、かれの晩年の談話をもとにして編んだらしい『御遺告(ごゆいごう)』にある。
「わたしは両親から貴物といわれていたよ」
と門人だちに洩(も)らしたらしいかれの談話の感触には、近世人のような含差などはなく、手斧(ちょうな)で打った柱を見るような、古代末期に生まれたひとのおおらかな神経を感ずる。「貴物」という語感には、神秘的なきらめきが含まれていなければならない。『御遺告(ごゆいごう)』にあるように、天竺の賢者が胎内に入ってうまれたといったふうの仏教的な神秘想像もまじっていたかもしれないが、しかしながら人間の児(こ)が異様な利発さを持つという場合、古代から中世にかけてのひとびとはそこに神に近いものを感じた。

『空海の風景』第2章

上記、「人間の児(こ)が異様な利発さを持つという場合、古代から中世にかけてのひとびとはそこに神に近いものを感じた。」とは、言い得て妙である。空海は、その同時代において、既に、周囲からは、天からの「授かりもの」として、神に近いものとして、受け取られていたのではなかろうか?というのが、司馬遼太郎の指摘するところである。
それが証拠に…という訳ではないのだが、次の文章が、これに続く。

空海の父母や、縁類、近郷のひとびとが、この少年をみてつねづね異常さを感じ、やがては神にちかいなにごとかを想像するにいたるのはごく自然なことであり、「とうともの」のひびきにはその感情や評価が大部分を占めるであろう。この両親が感じたかれに関する感情が、やがては日本全土にひろがり、ついには後世にまでそれがつらぬかれるにいたる。奇妙というほかない。

『空海の風景』2章より

ここで云う「ついには後世にまでつらぬかれるにいたる」とは、四国88ヵ所霊場を巡る、同行二人、そこにある「空海」の姿を示唆してのことであろう…日本で「巡礼」の地となった、いわゆる「お遍路」は、空海へのゆるぎなき、たゆまなき信仰なしには考えられない…そこに日本全国から人が集まるのであるから、やはり、空海とは、その幼き頃に「とうともの」であったというのも、司馬遼太郎ではないが、「奇妙というほかはない」であろう。

さらに、本文は続く...。

この稿にあっては、それを遠慮しつつもしばしば架空の上にきわどく仮定を載せるようにして、空海に近づこうとしている。

『空海の風景』2章より

ここで、司馬遼太郎は、空海を研究分野とする、仏教学者などの先達に、まるで、あらかじめ、これが「小説(フィクション)」であると、ことわるかのように記しながら、論を進めてゆく…。

空海における真言密教の中には型どおりの仏教的厭世観は淡水の塩気ほどもない。それが無いという機微のなかにこそ釈迦がはじめた仏教の伝統と異なっているとみるべきであろう。むしろ人間が「なま」のままで、というより「なま」であればこそ、たとえば性欲をもったままで、というより性欲があればこそ即身で成仏ができ、しかも成仏したまま浮世で暮らすことができるようであったらしい体系なのである。

『空海の風景』2章より

ここでの司馬遼太郎による密教理解は、少し荒っぽいながらも、核心をついていると思われる。「人間が「なま」のままで、というより「なま」であればこそ」という人間賛歌が、密教の教理にはある…というのを、司馬遼太郎という作家は、その「即身で成仏ができ」という文句より感じ取ったのであろう。もしかすると、司馬遼太郎は、空海の著書である『即身成仏儀』に目を通しての記述かもしれないが、即身(司馬遼太郎の言葉を用いれば「なま」のまま)で成仏ができる…そのような体系的な「かたち」をもった「教え」なのだ…ということを、やんわりと示唆して済ませている。

引き続き、文章を見てゆこう。

人間が巨大な才能を蔵してまだそのことに気づかずにいる場合、そしてその環境が極端にその才能を閉塞させている場合に、ほとんどその意志とは別個といっていいほどの唐突な衝動でもって奇矯な行動をとるか、思わざる世界へ行ってしまうかするという例は、過去の天才の歴史のなかで無数にある。空海がたとえ巨大であっても、その年少のときは誰でもそうであるように、ごく単純な環境しかあたえられていない。空海の年少のころは修学生であった。そして大学は明経科をえらんだ。
この環境の単純さから考えて、退学というかれの環境逸脱の行動を、ことさらに卑小なたとえで考えてみることもできる。かれは要するに哲学をえらんだのであろうということである。大学寮には音韻という外国語学科まで付属していたが、哲学科はなかった。哲学的欲求の強い人間のためには仏教というものが他にあり、そこへゆかざるをえなかった。その仏教をえらぶについては情念的懊悩(おうのう)などかれの場合はいっさいなかった。深刻な知的煩悶(ぼんもん)のみがあり、わざわざ演劇的構成でもって『三教指帰(さんごうしいき)』を書くことによって、彼が大学で学ばされている儒教と道教と仏教の三者の優劣を比較し、結論として仏教のほうが他の二者よりはるかにすぐれているということを引き出すのである。ひき出しただけでなく、そこへ転身してしまう。かれが仏道に入ったのはいわば学科の転科にすぎず、中世の爛熟(らんじゅく)期に日本にあらわれてくるひ弱な厭世的情念などは、この精気のあふれた男にはなかった。

『空海の風景』2章より

上記で重要なのは、「かれが仏道に入ったのはいわば学科の転科にすぎず、中世の爛熟(らんじゅく)期に日本にあらわれてくるひ弱な厭世的情念などは、この精気のあふれた男にはなかった。」という下りであろう。
つまり、空海の出家には、厭世的情念(いわゆる「世捨て人」になるような心の素地)というものは、微塵もなかったであろう…という指摘である。

空海は、人生の難問を解こうとして、当時、その唯一といっていい選択肢だった「仏道」を選んだ(その詳細は、空海自らが執筆した『三教指帰』に詳しいが…)のである。

空海にとっては、官吏登用のための機関であった大学は明経科において学んだ「儒教」とは、形骸化され、もはや儒教が、かつて「古儒」と称された頃の生彩を欠いて、日本に渡来したそれは、空海にとっては、さも、つまらぬものに読めたに違いなく、はたや老荘思想においては、ここ日本では、本国中国のようには発展しておらず、その経典のみが、書物の情報だけが入ってきているにすぎず、空海も、そんな日本における状況下において、これを論じており…つまりは、仏教より、他に、一身を投じて、自らの人生をかけて、その「教え」を極めんと欲するに足る「受け皿」が、なかった…それを司馬遼太郎は、こう述べている。繰り返しになるが、以下、もう一度、引用しておきたい。

かれは要するに哲学をえらんだのであろうということである。大学寮には音韻という外国語学科まで付属していたが、哲学科はなかった。哲学的欲求の強い人間のためには仏教というものが他にあり、そこへゆかざるをえなかった。その仏教をえらぶについては情念的懊悩(おうのう)などかれの場合はいっさいなかった。

『空海の風景』第2章より

こうして、今でいうところの「官僚」になる、世俗の出世コースを外れて、私度僧(※国家からは認めてられいない、自称「僧侶」)にドロップアウトしてゆく、おそらく、空海の後ろ盾となっていた血族たちが血相を変えたであろう出来事が、このあと、展開してゆくのであるが、それは次章以降、第3章以降に譲りたく思います。

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