見出し画像

『沈黙』(遠藤周作)を読む予定です

遠藤周作が「生誕100周年」という節目です。

これを契機に、地元の読書会にて、遠藤周作の作品を発表したいと思います。
※以下、ホームページが読書会公式HPです

こちら読書会では「司馬遼太郎」の生誕100周年を契機として、2023年2月より「司馬遼太郎を語る会」を毎月第四火曜日に実施しておりますが…遠藤周作も生誕100周年…たしか池波正太郎も生誕100周年では?

今年は「生誕100周年」の「当たり年」ですね!

…という訳で、わたしは、遠藤周作の作品から、何を選ぶか?ですが、映画化もされていることですし『沈黙』を選びたいと思います。
現在では、文庫本でも、気軽に読めます。

わたしは、マーティン・スコセッシ監督作品にて『沈黙』を観ましたが、原作のほうは、ささっと通読したことしかありません。

この映画作品は、さまざまな批評を受けて、そちらはWEB上にも、今日においても、いろいろと散見されます。

まずは、遠藤周作の『沈黙』という作品が、他の「物書き(文学者)」たちに、どのような影響を与えたのか?を、図書館から本を借りて、調べてみるつもりです。

それから、実際に、改めて本作である『沈黙』を再読ですが、わたしとしては、マーティン・スコセッシ監督作品の『沈国』において…

宣教師が「踏み絵」をして棄教を決意する一刹那に聴いた「わたしを踏みなさい」という「神の声」とも云うべき、あのシーンが、原作では、どのように文章化されているのか?を確認して、そこから、この『沈黙』という作品が描いた「沈黙」の意味を、わたしなりに発表してみたいと思います。

映画の世界ですと、イングマール・ベルイマン監督作品で「神の沈黙三部作」と称される、三つの映画作品があるのですが…

マーティン・スコセッシ監督も、ベルイマン監督から多大な影響を受けた一人に数えられますので、自作の『沈黙』においても、その要素は意識して受け継いでいるものと、わたしは考えております。

それは「なぜ、神はお応えにならないのか?」という、神の沈黙に関してのことです。

ここからは映画の話になってしまって、遠藤周作が原作の『沈黙』からは離れてしまうので、ここまでにして割愛したいと思いますが、何故、宣教師が、神を捨てたのか?が、この原作『沈黙』においても、重要なファクターであることは間違いないと、わたしは察しています。

遠藤周作は、生前に、自分は、『沈黙』という作品のなかに出てくる「キチジロー」と同じだと…自分の信仰は、キチジローのそれだと、そう語ったと、言い伝えられておりますが、わたしが知りたいのは、遠藤周作が描いた宣教師(パードレ)たちの、揺れ動く信仰のそれです。

次回、読書会にて私が発表する、そのテーマに、あえてタイトルを付けるとするならば「遠藤周作『沈黙』における宣教師たちの棄教」とでもなりますでしょうか…そこにフォーカスしながら…次回の地元読書会は、毎月第二火曜日ですので、9月12日(火)となります…それまでに資料を作成し、発表に漕ぎ着けたいと、そう願っております。

サポートして頂いた金額は、その全額を「障がい者」支援の活動に充当させて頂きます。活動やってます。 https://circlecolumba.mystrikingly.com/