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焼肉は真剣に食べなくっちゃ

以前から予約していた舞台が緊急事態宣言の延長で公演中止となった。
この状況なので文句をいうわけではない。たまらない想いをしているのは運営側や、舞台にたつために練習に励んでいた演者たちだ。彼らが涙をのんで諦めている。
けれども、数ヵ月前からのお楽しみがなくなりガクッと気落ちしたのは正直なところ。「ここまでがんばろう」と励みしていたものがなくってしまったのだ。

「お肉を買ってこよう」

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夫がそう言ってくれた。近所でも評判のいいお肉屋さん(ちょっと高いので普段使いはしていない)で上等な肉を買ってきて家で焼肉をやろうという趣旨だ。
一も二も無く「のった!」。同じく食べることが好きな彼とはこういう時に気持ちがぴったり合う。

買ってきたのは「国産牛の上から3番目くらいの焼肉用のお肉」「トントロ」「漬け込み牛肉」。
この「国産牛の上から3番目くらいの焼肉用のお肉」がポイントだ。もっとグレードが高いお肉もあったけど、サシがたっぷりのっていると少量でもたれてしまう。何よりさすがに家で食べるのは躊躇してしまうくらいに高い。
ふだん買うよりもちょっと高い、けど高級すぎないくらい。きれいな赤身で、よくみるとキレイなサシが入っている。絶対にコレだ!

卓上コンロを用意し、においをつけたくない洋服などはしまいこみ、外気は少し寒いが窓を開け準備はオーケー。

まずは一枚ずつ、トントロ、国産牛の順番に味わってみる。
焦げがつかないように、丁重にうらおもて焼き上げた貴重なお肉の切れ。
塩とコショウにレモンをしぼりさっぱりといただく。
はぁ、焼いたお肉が喉をとおる瞬間はなんでこんなに心地いいのだろう。
少しいいものを買ったためか、脂のクドさはなく、トントロも国産牛もお肉の旨味が存分に広がって夢心地だ。

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最初の一切れは、儀式的にふたり分を焼いたが、そこからはそれぞれで好きなように。
好みの焼き方が違うので、自分の思うのままにやるのが一番。
私は、片面を焼いてプツプツとお肉が汗をかいてきたところで塩とコショウを振りかける。夫は下味をつけずサッと両面を炙りやや赤みが残るくらいで引きあげ、そこに塩なりステーキ醤油なりをかけて食べる。

複数人で焼肉に行くと、鍋奉行ならぬ焼肉奉行があらわれることがある。
おいしい肉の焼き方をレクチャーしてくれ、鉄板に気を配ってくれ、その人の思うおいしいところで引きあげくれる。
友だちとの焼肉だとおしゃべりに気をとられてしまう瞬間があるので、誰かがお肉を見張っているのはありがたい。
だけど、家の中では言語同断。自分のお肉は自分で責任を持つべき、と私は思う。

桜色のお肉が、とろけたように脂を浮かべ、やがて色を変えていく。一番おいしいところでひっくり返してあげて、自分が思うタイミングで食べる。焼肉とは、そんな風にお肉と向き合う時間が醍醐味だ。
まるで禅のような心持ちではないか。いくらなんでも言い過ぎかもしれないが。

・・・ひとしきりお肉を食べて満足。舞台を観れなかった悔しさも忘れてしまった。
最近、環境問題や倫理的な観点から“肉食”を見直す動きもあるが、おいしいお肉を食べた時の感動は代えがたい。感謝の気持ちが自然にわく。

さて、翌日、予想していたダイニングの煙臭はそこまでひどく残っていなかった。少しよい肉を買ったからかも。もしくは、自分らの内側にもしっかりお肉のにおいがついて、同化しているかわからないのか、こればかりはわからない。「私たち、焼肉のにおいついているかもね」と、夫とクシシと笑う。

舞台は見そびれたけど、鉄板の上で色づくお肉を十分に堪能できた。


煙がこもる家の中でお肉と対話していた

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