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パチンコ屋の社員だった私が教師になったわけ②

社会人になって初めての一人暮らし。
見知らぬ土地で見知らぬ人と仕事をする。
慣れるのに数ヶ月はかかった。

1年が経つ頃には仕事にも職場の人間関係にも慣れた。
しかしあの事件が起きた。

東日本大震災だ。


その日は遅番出勤だった。
昼頃に起きて、仕事に向かおうと家を出た。
マンションのエレベーターを降りている時、一瞬すごい揺れを感じた。
エレベーターが止まらなかったのは幸いだったと思う。
外に出ると、おばあさんが地面に手をついていた。
駐車している車が明らかに跳ねているのを見て、やっとただごとじゃないと理解した。

店に着くと地獄絵図だった。
玉箱が転がり、玉箱を抱えた火事場泥棒みたいなお客がいたり、避難誘導に従わないで遊技しているお客までいた。

すぐさま後処理に入った。
その後テレビから流れる映像を見て胸が痛んだ。
日本はもうお終いなんじゃないかなとすら思った。

営業終了後、店長からしばらく店休に入るという通達があった。
震災の日は電話も繋がらなくて、家族とも連絡がとれなくて不安だった。

何日間休んだのか覚えていない。
ずっと自宅待機だった。
部屋の電気はすべて落として、テレビだけつけっぱなしだった。
津波の映像や原発や政府の速報をずっと眺めていた。
悲惨な情報ばかりで、本当に心が病みそうだった。

しばらくして店が再開した。
しかし、周囲からの風当たりは強かった。
クレームの電話がしばらく続いた。
当時は輪番停電といって時間帯ごとに決められた地区が停電をしていたのだ。
そんなご時世に電力を消費するレジャー産業は非難の的となった。

寄せられるクレームはもっともだなと思った。
時には店に直接文句を言う人もいた。
すごく辛かった。
しかし仕事をしないとこっちも食べていけない。
そう思って対応した。

ある日、会社から募玉という取り組みをするよう通達があった。
募金のかわりにお客から玉やメダルを寄付してもらうというものだ。
遊技している客席を回って声をかけ続けた。
快く応じてくれるお客もいたが、なかには罵声を浴びせられることもあった。

その時、自分の仕事がすごく虚しくなった。
なんで世界が大変な時にこの人たちは、自分のことしか考えられないのだろう。
こんな人たちに傅いて飯を食っていると思うと、自分がひどく情けないように思えた。

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