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人と人の間にある大切なもの

中国の思想家である老子が残した言葉の中に「無用の用」という言葉がある。

これは一見無駄にしか思えない、なんの意味もないように見える無用なものが、実はむしろものすごく役に立っている、若くは意味を持ったものとして成り立っているということを表した諺(ことわざ)で少々奥が深い。

例えば茶碗。
人は茶碗の価値とその茶碗の絵柄や素材、手にとった時の感触等を茶碗の価値と思いがちだ。
だが茶碗が茶碗と機能しているのは、茶碗内部の何もない空間があるからである。

この空間が何かしらで埋められていたら、茶碗は茶碗として機能はせず、茶碗ではなくなる。
そこ(茶碗の中)に何もない空間があるからこそ、茶碗に価値が生まれ、茶碗が茶碗であることの意義が生じるのである。

これが「無用の用」だ。

つまり形ある物が価値があるのは、形ない物がその役割を果たしているからで、一見意味が無く無用だと思われることもそこに存在する限り必ず意味があると言うことだ。

この諺を基に人間関係について考えてみると物理的であれ、心理的であれ、人と人との間には茶碗と茶碗の中の空間に似たような関係のものが有る。

人は一人では生きられない。
勿論、生物学的に生きて行くことは可能だが、人が人であるためには親と子、兄弟姉妹、親戚、師、上司、同僚等の他の人といったなんらかの「間」必要で、この一見何の価値も無さそうな部分が人の価値や人が人であることの意義を生み出している。

茶碗が茶碗として機能しているのは、茶碗内部の何もない空間がある故であるのと同様に、人と人との「間」こそが、まさに茶碗の内部の様に「無用の用」となっているのだ。

人と人との関係を断ち切って、対人的な「間」を読み取れなくなった時、人は孤独を感じ、世の中から必要とされていない感覚に陥る。

テレワークやオンライン、デジタル化によってこの人と人との「間」が変化して行くことは間違いない。

ただ、どんなに世相が変わっても人が人間であるために、この「間」を大切にしていきたい。

「人」に「間」があることで人は「人間」と呼ばれる。

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