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アルゼンチンは裕福国だった?

日本人がアルゼンチンに抱くイメージは、サッカーが強いということぐらいじゃないだろうか。
もう少し言えば、酪農が盛んだとかワインが有名だとかが挙がるかもしれないが、何れにせよ経済的にも決して裕福ではなくあまり特徴が無いパッとしない国というものだろう。

だが、この日本人には縁遠い国が20世紀初頭、世界トップクラスの経済大国だったことを知る人は少ない。
実はアルゼンチンは、大自然に恵まれ、世界遺産も数多くある世界でも人気な観光国の一つなのだ。

アルゼンチン経済の歴史は、勉強してみるとかなり面白い。

アルゼンチンは当時、世界で五指に入る経済大国だった。
それは、イタリア人少年のマルコが、出稼ぎでアルゼンチンに渡った母を追って単身旅をする物語「母を尋ねて三千里」からも知ることができる。

この物語ではアルゼンチンが、欧州から仕事を求めて多くの人が出稼ぎに行く豊かな国として描かれる。

「母を訪ねて三千里」の時代設定は1882年。
主人公であるマルコはイタリアのジェノバからはるばる、南米アルゼンチンのブエノスアイレスにいる母親を訪ねて旅立つところから始まる。

なぜ、マルコの母親は先進国であるイタリアから出稼ぎでアルゼンチンに渡ったのか。
それは当時の産業革命による欧州の経済成長が大きく関係している。

19世紀(1801年~1900年)の欧州は「移民の時代」だった。
産業革命により工業化が進んだ欧州各国は急速に経済成長を遂げるが、この経済成長の恩恵を国民全員が享受したわけでは無かった。
経済成長の恩恵を受けられなかった人々は賃金上昇している国に移り住む。当時は、人口密度が高いヨーロッパでは賃金が上がりづらく、人口密度が低い新大陸では賃金が上昇しやすい傾向があったそうだ。
そのため、イタリアからアルゼンチンへの移民は決して珍しいものではなかった。

20世紀初めにアルゼンチンの加速度的な経済発展や繁栄を支えたのは産業革命ではなく酪農だった。
世界第8位の国有面積を持つアルゼンチンの広大な草原で放牧された牛や羊を欧州各国、特に英国に輸出することでアルゼンチン経済は拡大した。

だが、1929年の世界恐慌で英国が大打撃を受けると、英国に依存していたアルゼンチン経済はあっと言う間に立ち行かなくなった。

その後、90年代に通貨危機を起こしてから数度のデフォルトを起こし、いまだ泥沼から脱することができないでいる。

対照的なのは米国だ。
20世紀の米国も英国への農産物輸出で経済を急成長させていた一方、北部で工業化を進め、農業と工業の二本足で経済をけん引していった。大規模な工場や製鉄所、大陸横断鉄道、繁栄する都市、そして大規模な農業事業が、各地に出現し、やがて鉄鋼、自動車、飛行機等の産業発展を生み出していった。

アルゼンチンの急速的な衰退は経済基盤が農業一本のモノカルチャー経済であったことが大きな原因だと多くの経済学者は指摘する。

日本は第二次世界大戦後、製造業で世界のトップに躍り出たが現在に至るまで次の産業を作り出せずに衰退の一路を辿っている。アルゼンチンは歴史上、先進国から唯一衰退した国家とされている。

アルゼンチンという国家レベルの話は、当然、会社事業や、個人の能力開発にも共通する教訓だ。単一分野に頼る繁栄は危うい。

日本が先進国から衰退した2番目の国とならぬよう、会社事業が衰退して倒産しないよう、個人の能力が腐っていかないよう、日々努めていく必要がある。

一つの繁栄があるうちに、次の手を打ち始めなければあっという間に凋落する。

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