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古文、漢文、三角関数不要論について

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回はこの話題から。

……はぁ。
車輪の再発明、という言葉がありますが。
人間は同じ話をなんどもなんども、否定されてもゴミ箱に捨てられても無視されても、執念く底の底の汚泥からそれを取り出して、議題にかけて問題提起をするのが好きですね。
男女同権とか動物愛護とかそういう聞き飽きている(なぜ聞き飽きるかというと、完全なる解決が不可能であり、それが分かっていて誰しもいつか興味を失うため。まぁ、新しく生まれてきた純粋な人及び、それに近い脳をお持ちの方には新鮮な話題である)議題同様、
「学校で何を教えるべきか」
という話は誰しも興味をそそられるようで。

これにはですね。
まず、明快な定義をすべきなんですよ。
議題の中から、きちんと定義するべきを定義してから始める。
すると、議論の範囲がしゅ、と締まり、いい議論ができます。

定義すべきは、
「学校で教える『べき』こととはなにか」
これは問答無用ですね。
「教育を受ける子供にとって、有用な知識、経験を授けられるような内容」
と、こうなります。
さらに定義します。
「なにをもって『有用』となすか」
これもまぁ、いけるでしょう。
「教育を受ける子供が、将来必要となるであろう知識、経験」
では。ここからが肝要です。
「どんなものが、子供にとって将来必要となる知識・経験なのか?」

おお。意外と難しい疑問じゃないか。
そう思います。
なので、もう少し簡単に考えられるところから、とっかかりを探します。
どんなものが子供に有用なのか? と考えると、なんでも有用、とこうなってしまいます。
そうではなく。
「学校で教えるべき『有用』とは?」
と考えたとき。
ふ、と、思うんですね。
「有用、ってのは、子供が決めるのか。親が決めるのか。先生が決めるのか?」

本来は、子供自身が決めるべき問題です。
将来何が有用になるか。それは当の子供自身の問題だからです。
しかし。
子供の未来は千差万別。有用たるものがなにかなんて、未来になってみないと分からない。(だからこそ、いろんなものを詰め込んであげよう、と親や先生は思うのです)

なので、有用を決定する主体は、実は子供じゃないんです。
もっと言うと、親や先生であるべきなのに、もう少し違うんです。
ここ、肝心だと思うんです。
親や先生が決めるべきなのは、「『学校で』教えるべき『有用』の内容じゃなく、その子が『個人で』学ぶべき有用の内容」なんですよ。
話は実は、ここで個人的な問題に集約する部分と、それ以外の部分とに分かれるのです。
そう。ここは分けないといけません。

そもそも、子供が自分の未来を見越して、何者かになりたい、と願い、それに必要な知識や経験を集めるといういわゆる「自分のための勉強」ってのは、実は学校の仕事ではないんです。
自分のための勉強は、あくまで「個人で」すべきなんです。
学校で化粧の仕方や脱税のやり方、生き抜く上での処世術を教えないのは、これが理由です。それを教えるのは学校の仕事じゃない。
そして、子供の親や、先生は、個人の有用たる知識経験の手助けをすることはあっても、その他に分類される(この後に具体的な話をします)有用については、手続きに従うのみであまり決定権はない、というところが本当です。

問いにもどります。
学校で教えるべき「有用」を決める者とはどこのどなたか?
……実は、「国」なんです。
いや。正確には私立校があるので、「社会」と言うべきかな。
ある特定の集団ではなく、広く日本に浸透している日本たるべき集団としての社会。彼らこそが、学校で教える「有用」を決めているし、決めるべきなのです。

つまりですね。
学校で教える有用ってのは、
「日本を日本たらしめる集団としての社会が、これだろう、と思っている知識、経験」
のことなんです。

ですから。
古文や漢文や三角関数が学校で教えられるということは、この日本社会が、古文が少しは読め、漢文が少しは理解でき、三角関数がある程度理解できる人間が育てばいいなぁ、と思ってるってことです。
……うん。ピンときませんか。
じゃぁもう少し端的な言葉を使います。

日本社会が望んでいる人材ってのは、「科学的思考ができる人間」なんです。
つまり、
「科学的に思考し、問題を解決できるあらゆる知識や経験」を積ませる努力をしてる、ってことでして。

現代文は、科学的思考をするための論理を組み立てられる素地をつくるため。
古文・漢文は、歴史的な事実を考察する際、「当時の生データ」に触れて理解する素地をつくるため(「漫画でわかる〜」、とか、「かんたんまとめの~」とかの読み物だと、それを書いた人の個人的思想が入ってる場合がありますからね。原典に当たれる能力、ってことです)。
算数、数学は、科学的思考を抽象化した一番純粋なロジックの理解と創造のため。
社会は、地理も歴史も倫理も、この社会を形作っている成り立ちを理解し、果てはとーくの外国に住んでる人たちがなぜ今そうなってるのかを理解するため。
英語は、分かるよね。

最近ではこれに情報が加わっているそうですね。これも数学と同じで、ロジックを鍛える意味もあります。もちろん、コンピュータを触って実際にプログラム組めるまでに理解できれば,一番いいんです。

なので。
あくまで、科学に関わらない学問については学校で教えるべきではない、と、少なくとも私はこのように思います。
……という文言で一番ひっかかるのが、道徳ですかね。
道徳は科学じゃないですから。あれこそ「処世術」でしょ?
(あ、今敵を作った感じがびんびんとした……)
というわけで。

私がもっとも学校でいらないと思ってる授業は、道徳です。
ですがまぁ、……教えないわけにもいかんやろ、ってことですねぇ。
学校で道徳を教えるのはだから、社会が温情的に残してるんじゃないかな、と。礼法はかつての日本も教えてましたし、その名残ですかね。

で、まとめです。
いわば学校で習う知識ってのは、科学に基づいたもの、というのが大前提の、「社会」という大人が「個人」という子供に向けて与える「知育玩具」というわけです。

だから少なくとも、古文や漢文や三角関数を教えないかわりに、化粧の仕方や脱税の仕方や人へのゴマのスリ方なんかを学校で教える日は来ませんので、あしからず。
というか、そんなに学校でそういう内容が教えたかったら、そういう学校を作ればいいと思いますね。自分で。学校って認められないでしょうけど。たぶん。



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