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Bad (Mass-) Communication

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、またもどうしようもないことをどうしようもないですね、となげくだけの文章です。もし俺がヒーローだったら、悲しみを近づけやしないのに(わからんでしょう。古すぎて)。

意味深な言葉で 核心に迫らないで♪
と、のんきに歌っている場合ではありません(もうこのへんも通じないかなぁ)。

昨今、このような内容に関するポストが多いかんじがします。
それは。
「報道の自由度が日本はかなり低い、とマスコミは報道している。でもそれは、マスコミ自身が貴族化し、自分たちの批判を許さない、と考え始めている証拠ではないか」
というもの。
そこで今日は、報道とそれにたずさわるマスコミニュケーション、そこにはらまれるマスコミ当事者の意思、それについての問題意識、等々、について、縷々書いてみたいと思います。

資本主義における権力者は誰か? と考えてみたときに。
まず頭に浮かぶのは、アメリカなら大統領、日本やイギリスなら首相(女王や天皇なんて言ってはいけません。君臨すれど統治せず。あるいは象徴です)……とかでしょうか。
権力、という言葉は、法を背景とした強制力、という意味があるそうです。
なので、立法行政司法いわゆる三権を、もし統合しこれを握る絶対者が現れたとしたら、その国の為政者は資本主義、民主主義国内であれど絶対権力者、となるわけです。
そして。
権力者はかならず腐敗する、という一般論を敷衍するならば、これを監視しあるべき姿となるよう時に批判し、時に意見し、軌道修正すべき存在が必要です。
長らくは、この役割を、マスコミと呼ばれる人たちが担っていた……と、彼らは自負したりしています。

さて。
権力を「法を背景とした」強制力、と限定するから上記のような解釈となるわけで、「法を背景としない」ある種の強制力全て、いわば「広義の」権力として権力を定義するならば。
資本主義下では、わりと「カネ」……資本を持つ者が権力者となる……これが言い過ぎなら、少なくとも「権力者となりやすい、その傾向がある」ということは言えると思います。
社会主義や共産主義ならば、彼ら資本家の監視役はまさに国家であり、所得再分配の建前のもと、彼らの私有財産を認めずぶんどり、広く国民に再分配する、という形式になります(なるわけはないのですが、建前としてなります、とします)。
資本主義下では、これは間接的に、という接頭語はつきますが、「国税局」や「税務署」がその責を負うのでしょうか。
私有財産のうち、国家が社会保障・福祉のための資金とすべき部分についてのみ、利他へ奉仕する意味で支払を「法的に」義務とした、その分についても不当に逃れようとした場合、その額について調査し差し押さえる。限定的にではありますが、ある種の権力監視を行っている、と言えましょう。
また、これらについても法を犯した、という情報を公開する、という強制力を持って資本家を監視しているのもまた、マスコミでありましょう。
企業には大抵その財務会計について正当に処理されているかを確認するいわゆる監査役が置かれることがありますが、全企業、資本家を横断して監視しているのはマスコミだけです。

さて。
ここまで見てきて。
たとえば、かつて生徒の校門圧死事件という痛ましい事故が報道されたことを皮切りに、それまで「学校=管理社会」という枠組みで学校をとらえ、強い校則で生徒を拘束し、逸脱を防ぐこそ学校の役割だと(ほぼ当時の日本社会全体が)認識し、その監視的役割を担っていた教師、先生という人たちの敬意というか、権威というか。そういうものが地に落ち、おりからずっと議論されてきた先生たちの体罰問題とも結びついて、
「教師は不当に生徒を抑圧する存在であってはならない」
という機運が一気に吹き荒れたことがあります。

いまではよほど治安の悪い中学高校を除き、不当にきつい校則を押しつけたり(ダウンタウン浜田氏がいた旧日生学園は有名でしたね)する学校は少なくなり、それとともに教師・先生の権威はきちんと失墜しました。
失地回復といいますか、その後学校は、「反省」し、「身の丈を改めた」ということであります。
こういう学校の先生が持っていた強制力をも「権力」と呼ぶなら、マスコミの権力監視が有効に働いた結果として、カウントしてよいと思うのです。

あるいは。
某県県警警察官による覚醒剤使用事件と、当時の本部長による当事件の隠蔽・握りつぶし。これが報道されたことをきっかけに、横柄で高圧的であることがむしろ「当たり前」と社会的に認識されていた警察官全体への不信感が醸造され、以後、当の某県警は不祥事があるたびに注目される結果となり、また警官への白い目が向けられたことにより、それまで権力者(法を背景とするまさに強制力そのもの)であった警官は、あくまで表面上は、ですが、穏やかで優しいお巡りさんを演じ、すっかり高圧的な様子はなりを潜めるようになってしまいました。
これまた、マスコミの権力監視が有効に働いた結果と言えましょう。

あるいは。
某医大において、度重なる医療過誤が発生し、医療過誤は裁判され、医者側の過失が認められることもある、という認識が報道によって広まったことで、医者の権威もまた失墜しました。
インフォームドコンセント、セカンドオピニオンなどという、ある種「患者が医者を選ぶ」意識が醸成し、医師はまたサービス提供者としてそれなりの「患者に寄り添った」態度を取るよう強制力が働く結果となりました。

そうです。
ちょっとまえの昭和の時代まで、教師、警官、医者、てのは、横柄で高圧的で当たり前の存在だったのです。
これらが、いろいろな事件の報道をきっかけに少しずつ、社会的に変わってきた、という背景があるのです。

これら権力の監視の成功例は、ある種のカタルシスを、それを眺める民衆に与えます。権力の失墜なんて、それを持たざる者にとってはうれしくて仕方がない、楽しくて踊っちゃうような事例だからです。

ま、ここまではいいのです。

では、翻って。
このような、法的背景こそないものの、あるいは大資本を背景とした強制力こそない(朝日新聞の主たる事業は不動産という話ですが……まぁそれでも)のですが。
この、「マスコミ様」という「権力者」の監視は、一体誰がやるのでしょうか、という話なんです。

結論から申し上げますと。
誰も、やりません。やれません。Nobody can do it. というやつです。
ただ、昨今のSNS隆盛を受けて、あくまで個人で、個人というかぼそい力がある種の集結をして、彼らマスコミ様の発する情報を取捨し、その報道の真実性について意見を交わす。その課程をSNSで共有することによって、少しずつ、もうこれはいわば「ゲリラ戦」的様相を呈してはいるのですが、マスコミという大いなる権力の監視の代わり、としているような状況です。

某SNSにおいて議論されているエリアに限らず、マスコミ様の横暴は昨今、目に余るように感じます。
いえいえ。
昨今、という生やさしい話ではなく、昔っから、彼らの横暴は目に余ってきたのです。
ただ、それを超える権力の横暴に対処できうるのがほぼ、カイジEカードにおける「奴隷」ポジションの「マスコミ」だけだったので、彼らの発する情報はいわば庶民の武器であり、権力を監視するその役割をマスコミに仮託することに否定的ではなかった、それだけのことです。

彼らの実際の横暴について、とりあえず覚えてる限りですが列挙してみましょう。
あまり具体的には書かないでおこうとは思いますが……。
(なお、事件名はわざと正確さを欠いております)

サンゴ落書き事件。官僚レ○プ機密強奪事件。椿がどうの事件。裏金事件ねつ造事件。暴走族やらせ事件。成田闘争のいろいろ事件。……いっぱいあります。
また、小さなことでは、昭和のころは、「この店をよく書いてやる」と言ってただ飯ただ酒をたかる記者ってのは枚挙にいとまがなかったのですよ。
もちろん、カネを払えと正当な要求をしたが最後、逆に悪く書かれることは分かってるので、店もしかたなく無銭飲食を容認するしかなかった。
権威を笠に着て横暴を働くなら、これはまさに権力者の姿そのものなのです。

報道、という社会の立ち位置はどの国においても特殊であり、権力とは認識されないまでも、ある種絶大な権力を持ってるに等しい力を有している、というのは誰もが納得してくださるところでしょう。少なくとも、ここまでを読んでいただけたならば。

彼らマスコミという集団は、彼ら自身をして庶民が喝采を叫ぶようなことばかり報道してくれるならば、その地位は安泰であったのです。
これが政治における権力監視を例に挙げるならば、たとえば公共事業として道路整備ばかりを打ち出せば、税金の無駄遣いと叫ぶ(民衆からしたら、道路に使う税金が減れば、自分たちの税金自体が減るのでは、という錯覚をするわけです。そんなわけないのに)。消費税を導入したり上げたりすれば、税金の使途について、あるいは税金を上げることそれ自体について批判する(税金を上げるな、という批判はもっとも簡単な批判のうちの一つです。だれでも気づき誰でも出来ることです。唯一問題なのは、消費税の増税が本当に日本経済にとってどマイナスであり、増税反対という言葉は現状においてはマジに理にかなってしまっている、というところであります)。
ただ。
その実情を細かく、よく見てみると。
庶民宰相として絶大な人気を誇った田中角栄氏を、ロッキード事件で悪の権化にしてしまい、その功績までも地に引きずり下ろしたのは、今となってはやり過ぎではなかったか、ということだったり。
(これはどうでしょうね。実際警察トップや官僚の人事権を操って独裁に近い状態を築こうとしたこと自体は本当ですし、それが善意から来るものであったとしても確かに危険な行為には変わりない)

一番最近では、安倍晋三という稀代の元宰相を、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」というしごく当たり前な発言だけを切り取り、まるで悪かのように報道を繰り返し、警官や警備隊の警備を萎縮させ、例の卑劣な銃撃事件のいわばお膳立てをしておきながら、いざ事件が起こると、安倍氏があたかも統一教会とのつながりがあったかのように報道し(あったとしてそれがどれほどだったかの検証が足りないのですよ。安倍氏ほどともなれば、ほぼ全ての社会とつながりがあるもんですよ。当たり前でしょう。それとも宗教法人に関わる人たちには選挙権があってはならないと言うつもりでしょうか)、自分たちの責任を宗教団体にいわばなすりつけたり。

つまりは、「庶民の怨嗟の代弁者」という地位から、「自分の考える、自分の望む社会変革を目指すアジテーター」という位置へ自分たち自身でシフトしはじめている。
これこそが、マスコミ様がマスゴミと呼ばれるようになった所以であると、私は思っております。

カイジEカードにおける「奴隷」の地位、というのは、私にしてはうまいたとえだったなあと自賛しております。この奴隷の地位(ある種の徒手空拳)であったからこそ、皇帝をも撃てる力を持っていた。多少の個人のマイナスな資質は見て見ぬふりをされてきた。

それが、自己が意思を持ち、ある世界へと国民全体を「誘導しよう」と考え始めたら。
「監視のない権力者」は、やがて暴走を加速させるでしょう。

そして。
そういう意思を持ち始めると、まず必要になるのが、実体ある権力者となるための、「資金」です。
そして、その資金を提供するような――昨今では、中国という影響が非常に無視できない大きさとなっております。たとえばアメリカでも、アメリカが中国半導体機器やメーカーの排除を打ち出したところ、ロイターが記事内で激怒した、という話がありました。資本主義国へ、確実に中国資本が浸漬していた、という見本でありましょう――存在にスリ寄り、資金提供者に有利な情報のみを流すようになれば。
それは一種の洗脳装置の押し売りであります。
事実、そうなっている、という現状を否定できないところまで、この日本社会も来ている、と思っています。

そして。
本稿の中程でいみじくも慨嘆したとおり、このマスコミ様の監視ができるような機関は存在しないし、存在できません。
なぜなら、その性質上、その機関にお金を払うことができないからです。
(機関を作ったとして、そのお金の出所に、上記のような悪意ある資金提供者が関わったとしたら、マスコミ監視のために洗脳機関を作る、という意味のわからないことになってしまいます。……ここで急に思い出したことですが、福本伸行氏の最高傑作「銀と金」で、主人公のフィクサー・銀二が目指していたものこそ、この「監視機関(マスコミではなく、企業の監視機関ではありますが)」でした。やはり、同じようなことを考える人はいる、ということです)

SNSというものがあるのは、せめてもの救いです。
個人ができるだけ積極的にこの横暴な権力を監視し、意見を交わし合い、少しでもその効力を無効化する。
それしか、方法はありません。
そして。

こういう人たちが主流となり、一次報道が考察を加え続けられてその効力が無効化するまでに仮に、なったとしたら。
それこそは資本主義下における国民の「勝利」であり、私が思い描いている、
「マスコミの、情報第一次産業化」(※第一次産業が農業、第二次産業が工業、第三次産業がサービス業であるように、マスコミはその報道については「生産」する役だけを担い、その生産された情報が処理され、サービスとして質のいいものになるまでSNS界隈で精査されることで、マスコミ様をただの情報の一次生産者にしてしまおう、という壮大な試み。ただし賛同者は皆無。そしてただの妄想。無理)
の促進に一役買う、ということ、明らかでありましょう。

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