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去りゆく記憶と消えゆく故郷

故郷のその後

 先日、自己紹介代わりの振り返り駄文を長々と書き連ねました。

 10歳くらいまで過ごしていた故郷の夕張ですが、この記事で書いた通り、親が働いていた炭鉱は閉山を迎えます。

 62人の死者を出した爆発事故が起きたのが1985年。その後の事業縮小に伴って親が転勤となって夕張を離れたのが、1987年。そして最終的に閉山したのは、1990年です。私が離れた時期は先行転属組だった為、まだ地元の光景はさして変化のない頃でした。しかしながら、当然その後どんどん人が離れ、閉山に伴ってやがて立ち並んでいた社宅もなくなり、町そのものがほぼ消えていくことになります。石炭を運んでいた鉄道も廃止になり、線路が撤去され、公共交通は限りなく本数の少ないバスだけに。しかし、関東に引っ越した後ではなかなか故郷に戻る機会も少なく(正確には、まだ札幌に祖父母がいたのでたまにそちらに帰省することはあったのですが)、具体的にどういう風に景色が変わっていったのかは知る由もありませんでした。しばらく経ってから、ついぞ卒業することのなかった小学校の閉校記念テレホンカードが届いたくらいでしょうか。

25年後の光景

 それから長い年月が経過して、諸々の事情により、墓参りのタイミングで夕張に少しだけ立ち寄る機会がありました。親が住んでいた大夕張方面まで足を伸ばす時間はありませんでしたが。

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南大夕張エリアで多分一番知られているのは、この車輌保存地かと思います。

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 保存地という割には、野ざらしなのがちょっと残念ではありますが。茶色い車輌は、石炭貨物とは別の客車。下の黒いやつはラッセル車、いわゆる除雪車輌です。雪国ならではですね。駅名標で南大夕張の先が明石町になっていますが、そこは母親が昔住んでいた地域になります。

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 夕張シューパロダムインフォメーションセンター。これは昔はなかった施設ですね。故郷を離れてしばらくしてから、シューパロダムの拡張計画が始まったことでできた施設だったかと思います。ダム拡張によって、大夕張の方はかなりの町がダムに沈んでしまいました。大夕張にはそんなに頻繁に行った訳ではありませんでしたが、遠足だとかスキー教室だとか、その他に親の母校の裏山に立つ無人の神社に行ったり、ダムそばの夕張川源流域でアンモナイトの化石を拾ったりと、それなりに思い出はあるので、元住人ほどではないものの寂寥の感は拭えません。

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 シューパロダム周辺、拡張工事中くらいの時期の写真です。基本的に直接下に降りて見ることは出来ませんでした。(父だけ、何やら直接話をしにいってチラ見したらしいですが)

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 夕張岳登山入り口。そういえば、私は登ったことがありませんでした。固有種の花も多いらしく。

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 体育館。私にとっては、通っていたわかくさ幼稚園の隣にあった体育館だったのですが、炭鉱爆発事故の殉職者慰霊碑が今はこの横の幼稚園跡地にあります。事故当時は、この体育館に遺体が運び込まれたと聞いています。その日は父も勤務中だったのですが、地上勤務だった為に事なきを得ました。

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 幼少期の私のオアシス、駄菓子をよく買いに行っていた吉田商店跡。建物自体は残り続けているんですね。もっとも、この手前側にたくさん立ち並んでいた社宅は全て取り壊され、原野に戻っていますが。
 はい、この手前側が私の家があった場所です。

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 ……いやー、すごいですね。完全に家の痕跡残ってないですね。この草まみれの場所、家に加えて広い畑と花壇が広がっていたんですよ。ルピナスなんてどこにも生えてなかった筈ですが、どこかから種が飛んできたんでしょう。当時の面影はどこにもありません。唯一懐かしかったのは、この草の中で見つけたエゾマイマイ(かたつむり)くらいでしょうか。子供の時もかたつむり飼育してたんですよ。畑の奥側にハマナスいっぱい植えてあって、カンタン(バッタの仲間)もたくさんいたんですが、ハマナスは完全に消滅してました。

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 若見町、青葉町の間を突っ切る中央の道路沿い。見覚えのある筈の建物もいくつか残っているようですが、正直ボロくなりすぎてて記憶と合わず。うーん。生協とかスーパー、喫茶店もあったんですが。すぐ横を走っていた線路がなくなったことで余計分かりづらくなってますね。

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 これはさすがに後からのやつなので思い出の中にはないですね。夕張市中心部側の方の駅。大夕張方面からは逆になります。もっとも、この路線も近年廃止になりました。市の中心部側は、覚えているのは石炭の歴史村とマウント・レースイくらいでしょうか。あ、あと風邪をこじらせた時に総合病院に行った時くらいですね。大抵の軽い風邪の時は、南部の家から近くに矢板病院?医院?というのがあって、そこに連れていかれては即注射だったのですが、幼児の私は注射が嫌いで泣きわめいて逃げようとしたので、押さえつけられた挙げ句に尻に筋肉注射された記憶があります。なんでケツだったんだ。

最後に

 今ではもう滅多に北海道に戻る事もなく、また鉄道も廃止になり、本数の少ないバスしか交通手段はなく、現地に宿も少ない、そして自分は車も自転車も乗らない・乗れないという状況なので、なかなかここを訪れる事も難しくなりました。それでも、いつかまた現地を再訪したいなあと考えています。何より、廃校となって当時の校歌の歌詞の通り「原始の林」に戻った母校跡地はまだこの目で見ていないので、そこは見ておきたいなあと。
 いつになるのかはさっぱり分かりませんが、その日が来るといいなあと思っています。


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