【短編小説】誘うもの
祐子には悩みがあった。
それはいつだって前触れなく彼女の前に現れて、身勝手に振る舞う。振る舞うと言ってもただ指をさすだけなのだが、これが厄介で、無視すればそれは露骨に機嫌が悪くなる。それを見せられるのが何とも鬱陶しいというか疾しいというか。
それとは、少年の姿をしていた。ブルーのシャツに紺の短パン。髪は短く整っており、良家の坊ちゃんといった風貌だ。
その少年が現れる時、祐子は大抵慌てている。学校に遅れそうだったり、電車に乗り遅れそうだったりとか、そんなタイミングで彼は現れる。指を明後日の方にさし、「こっちに来い」と言わんばかりに彼女を見つめる。
祐子は大抵、それを無視する。急いでいるのだから当然なのだが、そうすると少年の機嫌を損ねしまう。機嫌を損ねたとて何をするわけではなく、ただ膨れっ面になって彼女を睨みつける。そしていつの間にか姿を消してしまう。
祐子としては害はないが、なぜ自分の元に少年が姿を現すのか、そして何処へ誘おうとするのかが分からない。
少年を無視し続けることに、どことなく疾しさを感じながら、日々少年を無視し続けていた。
今日は最悪だ。
祐子はカフェでぐったりと項垂れていた。マグカップの水面に描かれた猫のラテアートがぐにゃりと歪み、チェシャ猫の様ないやらしい笑顔を見せていた。
大学4年生の祐子は就職活動真っ最中だった。それだけでも気が塞ぐというのに、第一志望の就職先との面接が圧迫面接で、一気に就活への意気を削がれてしまった。
見た目はいい会社だったのに。
マグカップの中のチェシャ猫にそう溢しながらラテを啜る。にやついていたチェシャ猫の顔は萎み、情けのない猫の顔に変わってしまった。
情けないのは私の方よ。
そう思い、ぼんやりと窓から街路を見渡す。通り過ぎていく人々。道路脇に捨てられた凹んだペットボトル。
その隙間に、少年が立っていた。
少年は凹む祐子のことなど気にもかけない様子で、いつもの様にあらぬ方向を指差し彼女を見つめる。
祐子はその少年をじっと見つめた。眉の高さに切り揃えられた前髪。長いまつ毛。丸く大きな瞳。
ええい、ままよ。
祐子は半ばやけっぱちになり、マグカップを煽った。そして少年の指さす方へと足を進めた。
少年は祐子の前方、曲がり角や電柱の陰に逐一現れ彼女を誘う。
怒りと虚しさを原動力にずんずん進む祐子の前に現れたのは、踏切だった。
カンカンと甲高い音を立ててバーが閉まろうとしていた。しかし、踏切の中には誰かがいた。その人は慌てているにも関わらずその場を動こうとしない。
よく見ると、おばあさんが必死に手押し車を押したり引いたりしている。どうやら車輪が挟まって動けなくなったらしい。
祐子は危険だとかを考える前に走り出していた。踏切のバーに手をかけ、またごうとした。
彼女が瞬きをした瞬間、大きな塊が甲高い音と共に視界を覆った。おばあさんがいたはずの場所に、電車の腹が見える。祐子はその電車から目を離せなくなった。
おばあさんは、どうなったの?
分かりきった疑問が頭の中をぐるぐる回るが、それを確かめる勇気は出てこない。車両の先端部分で人が騒いでいるのが聴こえるが、とても遠い場所での出来事の様に思える。
頭の中がキーンという音で一杯になった。
気がつくとあの少年が祐子の目の前に立っていた。彼は祐子に背を向け、車両に向かって立ち。
手を合わせていた。
彼は一体何を私に見せたかったのか。
そもそもなぜ、私はここに居るのか。
分からないことだらけの頭がぐらぐらと揺れる。
祐子は踏切前でへたり込んだ。