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【短編小説】準備
父の死期が近い。
そう医者に言われた時、私にはまるで現実味がなかった。悲痛な面持ちで伏せて泣く母を、どこか他人事の様に慰めながら、私はぼんやりとこれからのことを考えていた。
何を準備するべきだろうか?
医者がわざわざそう宣言しに来るのだから、暗に「死後のことを準備しておけ」と言うことなのだろう。
とは言え、それほど葬式に出たことがない私は、一体何を準備すればいいのか皆目分からなかった。母に確認すべきだろうが、塞ぎ込んでいる人に訊くことではない様な気もする。
とりあえず、喪服か。
そう思い立った時、窓の外では燦々と太陽が輝いていた。
父の面倒を見てから帰ると言う母と病院で別れた後、私はバイクに跨り、走り出そうとしていた。
途端に、右手にぽつり、と大粒の雫が落ちた。
空を見上げると、先ほどまでの快晴は何処へやら、今では曇天垂れ込め、大粒の雨を降らせている。
タイミングが、悪い。
私はデパートに向かうのを諦め、家路を急いだ。バイクを走らせる間も雨は勢いを増し、家に着く頃には全身ずぶ濡れになっていた。
私は玄関で衣服を脱ぎ去り、つま先立ちで足早に洗面所に向かった。服を洗濯機に放り込み、タオルで全身を拭く。
タオルを肩にかけたまま、私はケトルの電源をつけた。ごぼごぼと湯が泡立つのを眺めながら、もしかしてなどと考える。
私はデパートに喪服を買いに行こうと思っていた。それを阻止するかの様に降った大雨。
もしかして、父がまだそんな用意をするな、と言っているのではないか?
濡れた髪から雫が滴り、背中をつうと、伝う。
えも言えぬに寒さを覚え、母に電話をかけていた。母は病院の談話室で雨宿りをしていたらしい。泣き濡れていた先ほどよりは元気になった様で、私の思いつきを笑い飛ばした。
「そんな雨を降らせる元気があるなら、父さんまだまだ大丈夫ってことよ」
それから他愛のない話をして、電話を切った。
カチリと音を立てたケトルから、コーヒー粉を入れたマグカップにお湯を落とす。
まだ。
「まだ、大丈夫、よね」
窓の外では曇天は通り過ぎたのか、太陽に照らされた雨の雫がきらきらと輝いていた。