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待つ時間は、誰のものでもなく、自分の時間

先日、友だちと話していた時に「待ち時間」の捉え方が違っていて面白かったので書き記しておきたい。

私は、待つことが嫌いではない。というか待つことをネガティブにしない、の方がより近いかもしれない。

自分自身がちょいと時間にルーズなこともあり、実家にいたときはよく親を困らせていた。家を出る時間は大体決められた出発時間より5分過ぎることが日常だった。

そのうち親は私に10分早い時間を「出発時間」として通達するというテクニックを使い始めていた。なんで朝家を出る時ってあんなにバタバタするんだろう。いつもめげずに通勤ついでに学校の近くまで車で送ってくれていた親には感謝しかない。出勤と通学の重みは全然違った。。。遅刻厳禁だもの。


しかしそんな性格は今でも変わらず、この時間に出ようと決めた10分後にいつも家を出る(ただ、10分遅れても間に合うようにしているからギリギリ遅刻してない)。


自分が早めの行動をとれる人ではない分、相手が遅刻しても別に気にならない。時間に正確なのはとても良いことだけれど、正確じゃなかった時の窮屈さを生みたくない。


ただ、待つことにイライラしたり、嫌な気持ちを持つ人がほとんどで、その考えは心が広すぎるよって、友だちは言う。本当にそうなのだろうか?


「相手を待たせる時間は、相手の時間を奪っていることだ。」

この主張はある意味では正しいと思う。相手の期待に添えておらず、遅れにより問題が発生することもあるだろう。

けれど、「待ち時間」とはいえ、自分の人生の時間の一部であることは事実。


例えば。

待ち合わせ時間に10分遅れて到着予定の友人を待つ時間。自分はもう到着している。

そんな時に、「寒いのに〜風強いのに〜」と不機嫌になることもできるけど

「ちょっとそこの本屋さんに入ってみよー」と行動することもできる。


例えば。

病院の待合室。

いつ呼ばれるかわからず、けど明らかに混んでいて30分くらい待ちそうかも、、、な時間。片手にスマホがあれば、ニュースでもYoutubeでもブログでも、メールでもSNSでも大抵のことができる。

スマホがなくても、本を持ち歩いて読んでてもいいし。

「待つ時間」は友人にあげてる訳でも、病院の先生に取られてる訳でもない。「自分の時間」だ。

家でスマホをのん気にながめている10分と、友人を待ちながらスマホをいじる10分に、時間的な違いはないはず。

今やほぼ全ての人が、片手にスマホを持って、仕事も遊びもできる時代なんだし「待つこと」に寛容でいようよ、と思っている。


とはいえ、社会は厳しいので、あくまでも自分が待つのはOK、待たせるのはNGのスタンスは継続


次の予定がガチガチに決まっていたり、多数の人を待たせるのはやっぱり「時間以上のものを奪う」ことにつながるので。



「待つ」への意識は人間性が出そう。







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