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【小説】ばんそうこう

柔らかな素材の白い開襟ブラウス、スリットの入った黒いロングスカート、9センチのピンヒール。そんな格好であてもなく街を歩き続ける。道ゆく人は、誰も私のことなど気に留めない。美容院の予約時間はとうに過ぎている。今となってはもう行くつもりもない。何度か携帯に着信があったが、煩わしくて電源を切ってしまった。

また行く場所を一つ失った。明日になったら新しい美容院を探さなくてはならない。伸び切ってしまった髪は、もう自分ではどうすることもできないのだから、美容院に行く他ないのだ。束ねた髪が鬱陶しくて仕方がない。

こんなことの繰り返しだ。行くつもりだったバイトの面接、行くつもりだった友人とのランチ、行くつもりだった大学の授業。失われるその度に、私は街を歩き続ける。行くつもりだったのに、行かずに通り過ぎてしまった多くの場所。その場所に見つからないように人混みの中に身を隠す。

ヒールの中の足が痛み出している。9センチのピンヒールで、私はもう2時間も歩いている。爪先からは血が滲んでいるだろう。かかとは擦れて傷になっているはずだ。足を引きずるようにしながら私は歩く。いつの間にかとっくり日は暮れて、街灯が灯り、店のライトが輝き出す。道ゆく人の表情も温かい光に包まれて柔らかく映っている。

もう足を進めるのが辛くなってきた。身体をひねって自分のかかとを見てみると、ストッキングが赤く染まっていた。まばゆい街の明かりの中で、自分の足だけがぼやけて見える。
「もう限界だ」
そう思い、私は近くの植え込みの段差に腰を下ろした。行き交う人々が眼前を通り過ぎていく。痛む足をさすりながら、途方もない気持ちに苛まれる。頭上で響く街の音が私に覆いかぶさってくる。その音は、耳をふさぎたくなるほど大きくなっていく。目を閉じて足の痛みに神経を集中させる。

「大丈夫ですか?」
ふいに耳元で声がした。ゆっくりと顔を上げると、スーツ姿の男が私の前にかがみ込んでいた。いかにも善良そうなサラリーマン風の若い男性だった。

「あ、え…」
言葉にならない声が自分の口から吐き出された。
「ひどい靴擦れですね。歩けますか?」
男は言葉を重ねる。
「いや、あの…痛くて…」
ぼそりと答えた私に男は微笑んで
「ちょっと待っててください。ばんそうこう買って来ます。」
まさに善良な男だった。男は、私がまごつくのを尻目にどこかへ消えて行った。呆然と座ったまま、私はつい涙をこぼした。なんで流れてくるのか分からない涙を押し込めようと必死に目をつぶった。

きっとあの男はもう戻ってこない。こんな人混みの中で、うずくまっている女を少し気の毒に思っただけなのだ。だから、泣くことはないんだと、自分に言い聞かせる。迫り来るような人々の足音の中で、私は足の痛みに集中する。脈を打つように痛む両足だけが私のものだ。

一つの足音が私の前で止まった。見えたのは、茶色の革靴。そして、ばんそうこうが一箱、私に差し出された。
「どうぞ使ってください。僕は少し急ぐので、これだけ。」
そう言って私の手に箱を握らせて、あの善良そうな男は人波に消えて行った。

ああ、どうやっても涙が止まらない。涙を流し続けることに耐えかねて、私はストッキングを思い切り破いた。ピンヒールを脱ぎ捨てて、血まみれの足を外気にさらす。渡されたばんそうこうの箱を開けて、足の痛む場所に丁寧に貼っていく。足の痛みは治らない。けれど、いつしか涙は止まっていた。最後に右足のかかとにばんそうこうを貼って鼻を鳴らすと、私を覆っていた街の音はもうしなかった。

痛み続ける足をもう一度ピンヒールに押し込んで、来た道を引き返す。家の近くの住宅街に差し掛かった頃、あの善良そうな男の顔が浮かんだ。涙でぼやけてはっきりとは思い出せない男の顔を頭の中に描き出す。「急ぐので。」と言った男。仕事だろうか、はたまた彼女との約束だろうか、それとも、あれ以上私と関わりたくなかったのか。知る由もないあの男の急ぎの用事を思う。

あの男には、行く場所があるのだ。私は、ピンヒールをもう一度脱ぎ、両手に持ったまま街の灯りもないすっかり暗くなった住宅街を、ばんそうこうだらけの足で思い切り走った。

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