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【小説】一月の女

 それは、スーパーの鮮魚売り場にぽつんと置いてあった。年も明けてしばらく経つ昼下がりのスーパーは閑散としていた。鮮魚売り場でしばらくの間それと向き合ってから、私はスーパーを一回りした。手にするべきものはなにもなく、スーパーのBGMに頭痛がしてきた頃、私はついにそれを手にした。

 それだけを片手に掲げレジへ並ぶ。人の少ない時間帯だからレジは、一つしか開いておらず中年の女性が一人会計をしていた。足下の目印に従って中年女性の後ろに立つ。中年女性は購入品が多かった。野菜や肉、特売の惣菜が係の女性の手によってかごからかごへ移っていく。いつのまにか私の後ろには、高齢と思しき男性が並んでいた。並ぶべき目印を守っていないのか男は私の真後ろにいた。小さく、しかしはっきりと何事かつぶやいている。私は背中に汗が伝うのが分かった。着ているセーターと汗が皮膚に擦れて不快だ。高齢の男の独り言は、私が小さく掲げ持つそれへ向けられていた。 
「それをどうするんだ」
「それだけを買うのか?」
ぶつぶつと男は呟き続ける。
「一人で食べるのか?」
「なんでこの女が?」
男の呟きは止まない。私は絶対に振り向かないと心に決めて汗を流しながら、前の中年女性の会計が終わるのを待つ。わたしの会計の番が来た。係の女性は、それだけを買いに来た私を特に不審がることもなく、滞りなく会計は終わった。

スーパーを出た私の右手には、ずしりとしたそれがレジ袋に下げられている。晴れた午後、それを持って私は帰宅した。帰り道のことはあまり覚えていない。それを手にした高揚感なのか、なぜ自分はこんなものを買ったのか自分でも理解できないからなのか分からなかった。  

レジ袋の中を台所の流しへ置くと私は煙草を手に取った。これが人生最後かもしれないひと箱だった。私に挙げられた欠点は唯一、煙草を吸うことだった。ライターが見当たらない。仕方なくガスコンロの栓をひねり、顔を寄せる。船のことを考える。煙草の煙と一緒に小さな船が体をゆっくりと巡る様子を考える。煙と一緒に私の口から吐き出された船は、流しの中のそれに向かっていった。

これから、私はそれをどうするつもりなのだろう。流しの中に確かに存在しているそれを見つめる。流しの上の小窓から、冬の温かい日差しがそれに降り注いでいる。煙草をもみ消して、私はそれに立ち向かう。ビニールの袋を開けるとそれはぬるりと流しの中に姿を現した。

タコだ。海のない土地のスーパーになぜタコが一匹まるまる(タコは一匹と数えるのだろうか)置いてあったのだろう。コンロの下から大き目の鍋を手に取り水を張る。鍋に水を注いでいる間もタコは流しの中でどこでもないところを見つめている。水を火にかけ沸騰するまで待とうと思ったが、私はそのままタコを鍋の中に入れた。タコは鍋にぴったりと寄り添うように体を丸めていた。茶色っぽかったタコが徐々に赤く変色していく様子を私はじっと見ていた。

タコというものはどれくらい茹でるべきなのか、茹でた後タコをどうするのか私には分からなかった。ただタコを茹でた。鍋にぴったりだったタコの体は、少し縮んで鍋の真ん中に浮いていた。どうすることもできず、私は足の方から少しずつ赤く染まっていくタコを見つめ、煙草を吸った。これが人生最後の一本、かもれない。

台所に置いていたスツールに腰掛けると純白のドレスが目に入る。茹であがっていくタコの赤が白いドレスの上をちらつく。私は、明日結婚する。

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