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曖昧であること

今日は音楽と小説のお話です。

最近は音楽の聴かれる環境も激変したとおもいます。もうyou tubeは昨今ではあたりまですがやはり動画コンテンツの登場でビジュアルが重視されるようになり音楽に関しては外見より中身だなんていっていられない状況にあると感じています

NOTEは文章表現中心のメディアです。そのような状況の中、私も音楽だけをつくっているだけでは聴いてもらえないと思い、自分の音楽をどういう立場でどのように発信するかを、短い期間ですがこの場を借りて書いています。

できることなら音楽だけUPして、それでは「シクラメンの香り」です。よろしく。みたいな形で終わらせたいのですがそうもいっていられません。

ただ日々感じるのは言葉で物事を伝えるのは本当に難しいということです。言葉は使い方によっては相手に誤解されて時には人を傷つけてしまい、書き手にその意図がなくとも対立軸をあおってしまうような側面があると感じるからです。

考えすぎかもしれませんが、それによってイメージされた人格と音楽を関連づけられて捉えられたらまたややこしいな。などなど。そう考え出すともう書くことはやめようかなと思ってしまいます。

前回私は初めて小説風なるものを書いて、それなりに自分の感じたことを書きました。それは最近、いくつかの小説、文章を読んで非常にその表現方法がよいなと感じだからです。以前にも私は小説は善悪や道徳などで割り切れない事柄を救いあげているように感じたと書きました。また読んでいて感じたことはこの話が本当のことなのかフィクションなのかわからない。その曖昧さが何か書き手にも、読み手にも逃げ場があるように思えて、お互いに対して歩みよれる面がある優しい表現だと感じたからです。

そして巧みな比喩や時々ずばりと人間の本質をつくような表現もすんなりとはいってくる。例えば「聴かれない音楽ほど寂しいものはない」のような表現。そんなことは直接書かれてはいませんでしたが。。仮に書かれていたとして「それはわたしのこと?」みたいな。それでいてこちらは傷つかない。まあフィクションだし。(確か登場人物の人権が争われた小説などはありましたがそれはひとまずおいておいて)

そんな私には思いつかないような巧みな表現が出てくるのは、彼ら小説家が例えば、肉体と精神、友情と愛情、善と悪、自己と他などの境目を繋がった視点で捉えているからではと感じました。

私の作る音楽は幼いころに習ったクラッシックや今まで聴いたポップスをベースにしたものだと思っています。仮に自然の音を一方の極として→クラッシック→ジャズ→ポップス→他方の極に最新の前衛的な音楽があるのかは定かではありませんが、そんなグラデーションの中に私の音楽もあると思っています。

今日はそんなことを思いました。

話はそれますが小説好きな人、小説家は割とアーティスト性の強い例えばルーリードのような、上手いも下手も超えたような境目のない音楽に惹かれる傾向があるのかな、となんとなく思いました。ただ小説好きのみなさん。
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