慶應大学講義『都市型ポップス概論』⑦ 【ユーミンとニュー・ミュージック】(こたにな々)
●文学部 久保田万太郎記念講座【現代芸術 Ⅰ】
『都市型ポップス概論』 第七回目
----------------2018.05.25 慶應義塾大学 三田キャンパス
講師:藤井丈司 (音楽プロデューサー) ・ 牧村憲一 (音楽プロデューサー)
今回のキーパーソンは ”ニュー・ミュージック” の出発点となった荒井由実
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=kSJcLjFglKw
ジブリは ”空” ”青色” ”風” が大きなテーマになっており、前回のキーパーソンであった松本隆もまた”空” ”風” を重要視しており、共通の世界観がある。
●『ひこうき雲』作詞:荒井由実 作曲:荒井由実
ユーミンの楽曲の中で ”死” をテーマにしたものは分かっている範囲でも4曲あり、決して暗くなりすぎずに、ユーミンらしく聴き心地の良いメロディーになっているのがこの『ひこうき雲』。同級生が高校時代に亡くなったその悲しみをモチーフに書かれている。
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プロコル・ハルム
1970年前後の洋楽ファンや音楽家が大きな影響を受けたが、あまり語られていないイギリスのバンド。ユーミンもまた10代の時期に大きく影響を受けており『ひこうき雲』を作るきっかけとなった。
ピアノとオルガンからなるツイン・キーボードの編成でR&B的な要素とバッハを含めたクラシック的要素も融合させた音作りは70年代のプログレッシブ・ロックの先駆者と言われる。
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=St6jyEFe5WM
2012年には松任谷由実としてジョイントライヴを行い、プロコル・ハルムの演奏をバックに『青い影』を歌っている。
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ニュー・ミュージック
はっぴいえんどもまた『飛べない空』と言う楽曲でプロコル・ハルムに影響を受けている。はっぴいえんど解散後にメンバーの細野晴臣と鈴木茂を含めた4人で結成された ”キャラメル・ママ” は『ひこうき雲』を含めて荒井由実名義のアルバム3枚のバック演奏を担当している。
ユーミンとキャラメル・ママはアルバム制作を通じて出逢った。当初サウンド志向に違いはあったが、プロコル・ハルムという共通項もあった。
初めは歌謡曲、フォークとも違うそれまでなかった音楽故に理解者は少なかった。しかし70年代半ばになると急速にレコードセールスが伸び、逆に”歌謡曲”とも”フォーク”とも呼べない新しい音楽、”ニュー・ミュージック” として認知されるようになった。
その中には吉田拓郎、井上陽水といったフォーク畑出身のシンガー&ソングライターたちも含まれることになった。
デビューしてすぐに ”ニュー・ミュージック” を背負うことになったのが ”荒井由実” だった。
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シティ・ミュージックの特徴である浮遊という感覚
ニューミュージックが生まれ、その後自称ニューミュージックの音楽が量産される中で生まれたのが、”シティ・ミュージック” だった。そのシティ・ミュージックには共通の特徴があった。
前回のはっぴいえんど『夏なんです』の楽曲説明でも用いられた ”浮遊” という感覚は、ユーミンの『ひこうき雲』にも見られ、上を目指しているかのようなメロディーは無意識的な浮遊であり、このような空に駆け上がるような ”見える浮遊” と、混沌としている中に ”浮いている浮遊” が存在し、この感覚が他の人には無かった ”シティ・ミュージック" と呼ばれる人達の持ち合わせたものであり、詞や曲に表れた特徴と言える。
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荒井由実の経歴から見る音楽
●日本の音楽と美大生
日本の音楽を変えてきたのは美大生だ、というのが牧村先生の持論である。これは日本だけでなく世界的な傾向でもある、と。60年代以降のポップカルチャーを作るのに、単に音楽のみではなく、その周辺の芸術的感性を持つ事が重要だと考えられる。ユーミンもまた多摩美術大学の学生だった。
●宗教音楽
前述のプロコル・ハルムの『青い影』に強く反応した事は、ユーミン自身が幼少の頃にプロテスタントの教会に通い、中学と高校は立教女学院というミッション系の学校に通っており、聖歌を歌っていたという事。ユーミンの発言にも「グレゴリアチャントが好きだった」とあり、彼女の出発点でもあったのかもしれない。
●清元
ユーミンは意外な事に清元(語りと三味線方から成り立つ)を習っており、実際家業が呉服屋であったユーミンは、和の世界にそんなに遠くない所にいた
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生まれ持った環境と音楽
江利チエミ、坂本九という日本とアメリカを行き来し日本のポップス・シンガーの歴史を築いた代表的な歌手二人がいる。
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=O6HoFaYPYs4
江利チエミは素晴らしいリズムと歌唱力でジャズを歌い、14才の頃から米軍基地で歌う仕事をしていた。日本人が苦手とするジャズの ”リズム感" を備えていた。
そして坂本九は『上を向いて歩こう(SUKIYAKI)』で全米一位を獲得した。
二人に共通しているのは ”花街” で育ったという経歴がある事。昼間から三味線が聞こえる町、リズミカルで跳ねるようなお座敷の楽曲、こうした環境が無意識のうちにリズム感を養成したのではないだろうか。
------生まれ持った環境は音楽に大きな影響を与える。
ユーミンは学生時代に六本木の『キャンティ』という当時最先端のレストランに通い、そこに集っていた文化人やポップカルチャー周辺の人々と知り合っている。キャンティの常連客の中には、作家の三島由紀夫や作詞家の安井かずみ、女優の加賀まりこ、ユーミンのプロデューサーになるかまやつひろし、村井邦彦も居たのだった。
そして、ユーミンの生まれ育った街は米軍基地にも近い場所だった。
偶然にしてもポップカルチャーに必要な環境・情報が全て揃っていた。
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ユーミンと女性
ユーミンが当時16才の作曲家として見出された頃、フランスでは流行のリズム、 ”ゴーゴー” の影響を受けてアイドルシンガーが輩出されていた。その中からアーチストとして抜け出たのが ”フランソワーズ・アルディ” だった。ユーミンの作品『私のフランソワーズ』は文字通りフランソワーズ・アルディを歌ったもの。
●『さよならを教えて』フランソワーズ・アルディ
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=mwhX5V1Gn6w
フランソワーズ・アルディは若くしてインディーズレコード会社も立ち上げ、70年代を自らの手で切り開いた。
音楽の才能だけでなくそうした知識、実践の積み重ねも加えてユーミンは、幅広い層の支持を得ていく。
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出逢うべくしして出逢い、作られた ”ニュー・ミュージック”
17才で作曲家としてデビューし、その後シンガーソングライターとして、 キャラメル・ママと共にアルバムを作ったユーミン。
出逢いがなければ ”シティー・ミュージック” というビジネスの育みは作れなかっただろう。ユーミンが成功した事によってレコード会社やプロダクションはアフターユーミンを探し始めた。それは70年代初期には予想できなかった事だった。
アルバム『MISSLIM』ではコーラスアレンジを”山下達郎”が担当というまた新たな出逢いがある。ユーミンがさらに進出するにはポップコーラスが必要不可欠で、それは浮遊するというシティ・ポップスという感覚をさらに後押しした。
こうして出逢うべくして出逢い。欠けていたピースが埋められて行き、 ”ニュー・ミュージック” の世界は熟成されていった―
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次回へ!!!!
https://note.mu/kurashi_no_nana/n/n1547560a84c4
お読み下さってありがとうございました!
本文章は牧村さん及び藤井さんの許可と添削を経て掲載させて頂いています
文:こたにな々 (ライター) 兵庫県出身・東京都在住 https://twitter.com/HiPlease7
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