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生きるための"身体"と"記憶"の覚書

Netflixで湯浅政明監督の「カイバ」というアニメーション作品を見た。
何の前情報も持たずに「湯浅監督の過去作品だから見てみよう」と思い1話を再生する。個性的なキャラクター達と世界観に捕らわれてしまい、一夜の内に全て鑑賞してしまう。キャラクターデザインに強く現れている手塚治虫リスペクト感、絵本を捲るかのようなのめり込んでしまう世界に目が離せずにはいられなかったのだ。私が大好きなSFの世界だったから。

肉体の死がもはや“死”とは呼べなくなった未来で、記憶をなくした男・カイバはさまざまな人々と出会い記憶を取り戻していく。

この世界では、記憶の保存・売買・改ざんが可能で、身体は記憶をいれる器のようなもの。故に身体の乗り換えが可能で、自分の好きな身体を得ることも出来る。世界は、もはや混沌と化し、停滞している。記憶を失った主人公を始めとするキャラクター達は、もがき苦しみながら、世界を変えていこうとする。

1周だけでは分からない良さがあり、隠れた名作なんじゃないかなと思う。「これWOWOWとかでやってそう」だと思ってたら案の定そうだった。twitterで湯浅監督がツイートしてなければ存在も知らなかった作品だった。

興味のある方は、是非鑑賞を。
以下は、表題の通り、私が思うタイトルについての覚書となります。「カイバ」を見たからこそ書ける覚書です。お時間があれば、良ければ。


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===  身体  ===

現状の自身のこともあるので、すぐにそう考えてしまう。
『人は生まれ持った身体を成長させながら生き、失いながら、死んでいく。』

我々の世界では、肉体の死は"死"であり、都合よく身体を乗り越えることは出来ない。ただ、身体を整えることは出来、運動や食事によって肉体を成長・鍛えることも出来れば、お金を使って容姿の整形も内臓の異物の除去も可能だ。
生まれ持った身体は千差万別であるし、整え方も十人十色だろう。

さて、自身はどうだろうと考える。
今の病気が見つかって要因を考えると、ネガティブなループに入らざるを得ない。何時の間にか、欠点を見つけようとして重箱の隅をつつき出す、ダークな自分が顔を出してくる。残念ながら、ポジティブな状態からスタートするのは、ほぼゼロだ。
考えないようにすれば良いじゃないと思われるかもしれないけれど、ここで向き合っておかなければ繰り返してしまう。嫌なことを繰り返すことほど、不本意なことはない。出来れば、良いことを繰り返しておきたい。

ネガティブを繰り返してる中でポジティブに変わる瞬間がある。
誰かからの何気ない一言や本、漫画、アニメといった自分の好きな媒体で放たれる言葉だったり。繰り返してしまうが何度もなんども切り替えさせられる。
最近読んでいる「青のフラッグ」という漫画の中で、ポジティブに切り替えさせてくれた印象的に残った言葉があるので、ここに記しておきたい。

私は
私に生まれちゃったんだもんね

どんなに憧れても
努力しても

私は私がなれる範囲の私にしか
なれないんだもんね

好きなことも
選択も

私の範囲は
どれくらい
…なんだろう

本当に、どれくらいなんでしょうね。
今見えてる自分の範囲は、ちっぽけなものかもしれないし、一部分かもしれない。大海が広がっているのに、1点だけしか見えていないかもしれない。
なれる範囲は決まってるわけじゃない。狭くも出来るし広くも出来る。早い遅いは関係ないし、年齢がどうとかは絶対にない。そう言ってしまうとそこまででしかない。

人は気が滅入ってる時ほど、視野狭窄になりがちだと思っている。だから、ポンと背中を押してくれる一言に出会い続けていかないといけないんじゃないだろうか。

私は私がなれる範囲の私の身体を使って精一杯生きたいところです。


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=== 記憶 ===

"記憶は改ざんされるもの"だと思っている。
現実世界で誰かに直接脳を操作されて、そうなってしまう場面はない。しかし、日常で起こっている外的要因をに影響を受けて、私達は自分自身で記憶をそうしてしまっている。より素敵に美化したり、風化させたり、塗りつぶしたり、無かったことにしたり。他にも。
都合よく改ざんしているのは、自分の安寧を守るためだ。心が壊れてしまえば、器となる身体は動かないのだから。

今考えていること、思っていること、あった出来事。他にも。
もう明日には変わっているかもしれない。無かったことになっているかもしれない。私達は、毎日多様な変化をしていきながら記憶を改ざんしているのだ。

ふと幼い頃の記憶を思い出してみて、故人の顔を思い出そうとするも、なかなかに思い出せない時がある。何かしらで遺影を見て、記憶の中のその表情を思い出すことが出来ることがある。こちらに向けた優しい表情を思い出すことがある。記憶が変わっており忘れつつあるその事実を悲しいと思うけれど、写真という「記録」が「記憶」を助けてくれることもある。それを嬉しく思う。

「記録」を助けるための「記憶」があり、「記憶」を助けるための「記録」がある。

2017年5月に自身が書いてた言葉。
そう思いながら、今日もここに「記録」しておく。それで「記憶」が助けられるならそれで良いし、それが良い。

いただいたサポートで本を買ったり、新しい体験をするための積み重ねにしていこうと思います。