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横濱音羽製作所・製「ジュピター」との出会い

子供の頃、実家の近くに子供の脚で通えるピアノ教室がなく、音楽の仕組みを知る機会を逸してしまった。そのため、音楽に関しては、曲の感じが好きか嫌いかしか感受できず、それがどうしてかを分析できなかった。

一方で、家内は子供の頃からピアノを習っており、両親にアップライト・ピアノも買ってもらっていたので、その時々にピアノを演奏したり、子供に教えたり、聴いた曲を音階に直すこともでき、音楽を自在に操れるのを見て、うらやましく思っていた。

気分転換に音楽を聴くことはあっても、家内のように能動的な関わりができないので、音楽に深く没頭し、人生を豊に経験するには限界があった。五十の手習いで、今からでも始めたらよいのかもしれないが、習い事が未経験の人生を歩んできたので、それは敷居が高いことだった。

50歳を前にした頃、ネット上でたまたま、ヘッドフォン・アンプのガレージ・メーカー「横濱音羽製作所」の主宰者である音羽想志朗氏の文章を読み、氏の心念に惹かれるところがあった。同社は、人生を共に歩む相棒としてのオーディオ機器の製造・販売を目的とし、回路や外装の設計から、その製作まで、少人数のスタッフが一貫して行っているとのことであった。製品は、受注生産のみで、再生音を一度も確認せずに購入しなければならない。外観も、ホームページの画像で確認できるだけである。しかし、氏の、素子や部材を選定する段階から音楽性を追求する真摯な取り組みに惹かれ、50歳の誕生日の記念にと、同社のフラグシップ・モデルである「ジュピター」の購入を決意した。

結果、この決断は、間違っていなかった。誕生日を少し過ぎてから代引きで送られてきた「ジュピター」は、特製の桐の箱に収納されていた。

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ボディは木製で、銘木である「花梨」の無垢材の削り出しが使われ、フロントパネルには、アフリカ産の貴重な深紅の木「サティーネ」が用いられていた。天板は、ワインレッドの天然皮革で覆われ、底面は、重量のある人工大理石であった。リアパネルの真鍮板に刻印された製造番号は、2番であった。主宰者である音羽氏が述べていた通り、オーディオ機器を、愛着をもって長く人生を共にする調度家具と考える世界観が具現化されていた。

肝心の再生音はどうかというと、驚きの体験をすることになった。耳で音を聴くだけでなく、更なる脳の可能性が拓かれたのだ。音が、聴覚のほかに、体性感覚(前庭感覚、筋感覚、触・圧感覚、振動感覚)に変換されて知覚されるのである。すなわち、次のような体験である。まず、音場が広く水平に保たれているのがよく分かる。まるで、湖畔にいて、眼前をゆったりと湖面がどこまでも拡がっている感じがするのである。つまり、再生音が、水平・垂直座標を感受する前庭感覚として、クリアに意識されるのである。

その音場のなかの演奏家にズームアップすると、演奏家が、どの身体部位の筋を、どのような緊張状態で使っているか、という筋感覚がはっきりと知覚される。例えば、一流のピアニストは、指先ではなくて、主に肩甲帯を使って演奏しているのが判るのである。すなわち、肩甲帯が完全にリラックスすることで、上肢全体がちゅうに浮いたようになり、肩甲帯を起点として、自由に躍動する上肢全体で軽やかに鍵盤を操作しているのが、ありありと眼前にイメージされるのである。

ヴォーカルも、発声器官(声門・咽頭腔・口腔・鼻腔)の湿った響きとして、振動感覚がヴォーカリストの身体の内側から感じられる。感受したそれらの体性感覚を通じて、演奏者やヴォーカリストの感情の抑揚が、自ずと伝わってくる。音楽の始源は、演奏家やヴォーカリストの身体なのだ、と実感できた。

交響曲でも、そのオーケストラが祖国出身の作曲家の曲を演奏する場合と、異国の名門オーケストラによる沈着な演奏とでは、同じ一流の演奏でも、演奏家集団の身体の躍動感が異なるのが峻別できる。それらは神秘的なことなのではなくて、音の立ち上がり曲線と、筋収縮の立ち上がり曲線の特性とが、一致するように、回路を精緻に“調律”してあるからだろうと想像している(音羽想志朗氏によれば、いくら電気特性を突き詰めても、神秘的な部分は残るのだとか)。

我が家にやってきた「ジュピター」は、音楽と、私のリハビリテーション家としての経験とを、見事に結びつけてくれた。相棒「ジュピター」との音楽体験のおかげで、家内と二人でクラシック・コンサートに行っても、家内と違う観点から演奏を論評できるようなった。おかげで、音楽に対するコンプレックスも消えた。良き道具とは、良き仲介者であり、良き道具との出会いによって、人生を味わい深いものにすることができるのであった。

(2019年3月22日)


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