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「狭き門」より入りませんか〜若き医師達へ

入試シーズンたけなわである。このシーズンには、しばしば「狭き門」という言葉が登場する。狭き門とは、入試の競争倍率が高かったり、受験生のレベルが高かったりして、合格するのが難しいという文脈で用いられます。

「狭き門」は、新約聖書の以下の記述に由来します。

狭い門

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない。」

新約聖書(新共同訳)マタイによる福音書7章13節〜14節p12

現代語訳では「狭い門」になっていますが、文語訳の「狭き門」が引用され、今に至っているようです。

聖書は古代の人々が編集した英知の結晶と言えます。人の身体は5万年前の石器時代から変化していません。ですから、現代人が賢く、古代人が愚かだと言うことはありません。現代人は、優れた道具・機器を使えるようになっただけで、考える能力は同じなのですから、古代の人々が考え抜いた事柄の多くは、今でも十分に通用します。そのために、「狭き門」のように、ことわざや日常の慣用句として日本で定着した記述も少なくありません。

ですから、聖書は、キリスト教徒でない人でも、古代の英知が詰まった古典として読むことができます。新約聖書では、神の国に至る道を適切に選ぶ指針として、狭き門の喩え話が用いられていますが、「神の国に至る道」を、「困難や問題を解決する方法」、と置き換えれば、私たちが生きる上で、様々に応用ができます。

筆者は、日本で慣用的に使われる「広き門」「狭き門」という表現から、本来の意味を誤解をしていました。今まで「広き門」とは、困難や問題を解決するために多くの人が選択する、少ない努力で済む安易な選択肢で、「狭き門」とは、努力して、苦労して、熾烈な競争に打ち勝たなければならない選択肢だと思い込んでいました。

しかし、出典元である新約聖書をよく読んでみると、本来の意味するところは違っているようです。狭き門とは、狭く細いために、目立たず、見つけにくい門のことだと述べられています。競争が激しい分野は、華々しく、目立ちますから、むしろ聖書に記述されている「狭き門」の意味に反しています。慣用表現として用いている「狭き門」と、新約聖書に記述されている「狭き門」とは、だいぶ意味が異なっているようです。

筆者は、選択と競争という観点から以下のように考えてみました。わかりやすい喩えとして、たいへん世俗的ですが、テレビのバラエティ番組の「ナイナイのお見合い大作戦」を取り上げてみたいと思います。「ナイナイのお見合い大作戦」とは、嫁不足に悩む地域の男性が、番組の企画した集団お見合いに参加するというものです。参加者は通常、女性の方が何倍も多くなります。2日間かけて、意中の女性を一人だけ決めて告白するまで、選択や競争にまつわる様々な人間ドラマをみることができます。番組では、そのごく一部を編集して放映しています。

意中の女性を一人だけ選び、告白するまでには、いくつかのパターンを見ることができます。まず、よく放映されるのが、第一印象で決めた人気の女性参加者をめぐってライバルと競争し、最初の思いを最後まで貫き通して、告白の時まで争うケースです。周りの状況がどうであろうと、自分の夢や理想を貫き通す場合で、難易度の高い入学試験に挑むのと似ています。慣用的な意味での「狭き門」より入る例と言えるでしょう。

次が、第一印象で決めた女性があるものの、交流の段階ごとに気に入った女性が変遷し、告白タイムに至るケースです。このケースもよく放映されています。このケースでも、参加男性に選択権があって、ライバルと競争もしますので、慣用的な意味での「狭き門」から入る例でしょうか。

第3のケースは、自分を気に入ってくれた女性のなかから、告白の相手を選ぶケースです。気に入ってくれた女性が一人しかいなかったら、その女性を選びます。こういったケースは、地味で面白みが少ないのか、放映されるのはまれです。このケースは、外からは努力が少ないように見えるので、安易と映るかもしれません。ですから、慣用的な意味での「広い門」から入るケースにされてしまうかもしれません。

しかし、それは、相手から自分が必要とされ、選んでくれた人に、自ら主体的に応える希少な生き方です。相手の立場からみれば、そのような人は、しなやかでやさしい人です。案外、このような生き方が、新約聖書で言っているところの、地味で目立たない「狭き門」に入ることに相当するように思えてくるのですが、いかがでしょうか?

狭き門

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姫路城天守閣に入る正門(慣用的な意味の狭き門)

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二の丸方面から姫路城天守閣に入る扉(地味で目立たない狭き門)

今、若い医師は、臓器別の専門指向が強く、大都会の大学病院や基幹病院に集まり、多くのライバルと競い合う道を選ぶのだそうです。慣用的な意味での「狭き門」を選んでいるわけです。それでも、「寄らば大樹の陰」、集まることで、つかの間、大勢の同期に囲まれて自分の居場所が与えられる安心感があるので、集中はエスカレートします。それは自分の生きる居場所の確保、という意味では安易であり、聖書のいう、滅びに至る「広き門」にあたるのではないでしょうか。

今、医療の現場で、圧倒的に足りないのは、弱ってしまった患者さんや高齢者に、やさしくできる医師です。病院長の集まりでも、重井医学研究所附属病院の真鍋院長をはじめ、多くの方から同じ意見を聞きます。そのような医師は、地味で目立つことはありませんので、ヒーローにはなれません。しかし、主体的に周りを慈しみながら、しなやかに自分の生きる居場所を築いていける、自立した人です。

若き医師達よ、あなた達はどちらの「狭き門」を選びますか?どちらも尊い道です。

(2019年3月5日)

追伸
画像は、姫路城の地元、姫路在住の芸術家、上田清照さんによる家の造形です。

上田清照さんによる造形

人一人が通れる階段を登ると、小さな入り口があります。これぞ、狭き門を表現しているのではないでしょうか。外からは見えませんが、家のなかにはどのような世界があるのでしょうか?

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