一〇五度(佐藤まどか作)を読んだとき思い出した友のはなし……☆★☆彡
アドリブを読んだときに、あっちゃんに読んでほしくて、感想を書いたら、連絡する前に「買いました、読みました」とコメントが届きました。
一〇五度を読んだときには、お薦めしようかどうしようか迷いました。
なぜかというと彼女の娘さんが芸大5浪の経歴の持ち主だったからです。
娘さんは6浪目に「親の年も考えてね……」と説得されて私立の美大に行き、東大の大学院に進みました。
それで、芸大受験に失敗したからといって人生に失敗するとは限らないと私は思います。
なぜ、今、こんなことを書いているかというと、その友人が二日前にがんで亡くなりました。
彼女は、一歳のときにポリオに感染し両足が不自由になりました。
知り合ったのはお互い30代のときでした。共通の友人に紹介されました。彼女は結婚して子供も産みました。
私は弱虫なので、脳性麻痺の私が子どもを産んだらぜったいにいじめられるから、結婚はしない、と高校生のときから決めていました。
私は健常児といっしょに小学校から高校まで、学生生活を送ったので社会に出るまでほかの障害者と出会うことがなかったので、差別された経験ばかりが記憶に残っていて、認められた実感がありませんでした。
大学生になって、一から人間関係を築かなければならなくなった時に、初めて私個人を認めてくれる人たちがいることを知りましたが、子どもの頃に受けた差別の記憶は消えませんでした。
就職するときも。私は成績は悪くななかったのに、就職が決まらないまま短大を卒業しました。
もう、その時点で、どんな仕事でもいいから仕事に就いて家族のお荷物にはなりたくないと思いました。
卒業して半年過ぎた頃に、歯科医院の雑用の仕事に就きましたが、この時の院長が養護学校の校医だっただったこともあり、私に受付と医療事務の仕事をさせてくれました。
それから、自分の障害と向き合うべく障害者の団体に入って活動するようになり、障害を持つ友だちもできるようになりました。
中でも影響を受けたのは、進行性の難病と共生しながら障害者の居場所を作ろうと活動していた水本恵子さんと、その活動を支えてくれたあっちゃんこと稲村敦子さんです。
水本さんは7年前に肺がんで亡くなりました。その後水本さんの活動は休止されたままです。
あっちゃんは、水本さんの活動を最後まで支えていたのは井口さんだといってくれたけれど、私は力不足で継続することができませんでした。
あっちゃん、水本さんを支えてくれてありがとう。私のことも支えてくれてありがとう。
お別れに行けなくて残念だけれど、いつか、また会えると信じています。
またね、水本さんに会ったらよろしくと伝えてください。
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