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逍遥遊・・・荘子の言葉に共感しかなかった

2020年の最初のエントリーです。今年もよろしくお願いします。

仕事初めの日に、ソニックガーデンで書初めをしました。かつてソニックガーデンにもオフィスのあった頃は、人数も少なかったこともあり、全員で筆を使って書初め大会と新年会をしたものですが、今はデジタルです。

書初めしたい人がZoomをつないで、社内YouTubeにライブ配信しながら、年末年始に取り組んだ技術的なテーマをプレゼンしながら書初めを発表していくのです。タイトル上の字は、こちらのサービスを使いました。

さて本題。私の書初めの文字が「逍遥遊」です。「しょうようゆう」と読むらしいですが、これは古代中国の思想家である 荘子 による言葉です。

荘子は、漫画キングダムの舞台にもなっている春秋戦国時代の少し前に実在した諸子百家の一人です。

戦国時代なので、戦争や争いの耐えない時代、孫子をはじめ兵法や政治を説いた思想家が多い中、荘子だけは「人はどうあるべきか、個の幸せとはなにか」といったことを説いています。

2300年前の時代に、そうした視点を持っていたこと自体が驚きです。

しかし、行き過ぎた資本主義の限界、制度や管理によるマネジメントの破綻、そして高齢化して閉塞感のある現代社会だからこそ、荘子の語る「無為自然」即ち「あるがままを受け入れて生きること」というメッセージは刺さります。知れば知るほど共感を覚えました。

「井の中の蛙」や「朝三暮四」「荒唐無稽」の語源であったり、「小説」という言葉を使った初めての人で、有名な「胡蝶の夢」の話も、荘子です。

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。
はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。(wikipedia「胡蝶の夢」

荘子は、寓言つまりフィクションやたとえ話で、その考えを表現をしたことも特徴です。しかも他の思想家が弟子たちが書いたらしいのと違って、莊子だけは自分で書いたらしいという話も共感を覚えます。

そんな荘子をざっくりと理解するには、NHKの「100分 de 名著」を視るのが、一番手っ取り早いです。オンデマンドで見えます。

こちらが解説ページ。

その内容は本にもなっています。

本書の目次をみてもらうと、ざっくりと荘子のメッセージを理解することができます。これがまた、ソニックガーデンという会社を経営している私にとって、とても共感できる言葉ばかりが並んでいました。

はじめに 心はいかにして自由になれるのか
第1章 人為は空しい
第2章 受け身こそ最強の主体性
第3章 自在の境地「遊」
第4章 万物はみなひとしい

まず「心はいかにして自由になれるのか」から掴まれます。あるがままに受け入れることで強くなれる、本当の自由につながる、そんな話も共感できますし、あらゆるものに価値の差異や優劣はないと説く話にも共感できます。

中でも重要なキーワードは「遊」です。荘子による「遊」とは、時間や場所に縛られないだけでなく、常識や知性にさえ縛られることのない自由な状態を指します。そうした状態でこそ遊びと言えるのではないかと思います。

荘子のエピソードの中に、牛を捌く庖丁さんの話があります。ざっくりと私が咀嚼して書くとこうです。

王様の前で牛を捌く庖丁さん。めちゃくちゃ綺麗に、舞うように切り分ける様子を見て、「すばらしい技だ」と王様はいたく感銘を受けます。庖丁さんは、それを受けて「私は、これを技ではなく道だと考えてます。」と。

「はじめたばかりの頃は、牛をしっかり見て捌くのは大変でした、それを繰り返すうちに、次第に切るべき隙間が見えてきて、さらに続けると、もはや牛を見ずとも心で捉えて切れるようになりました。骨にぶつかることなく切れるのです。」

そうして、19年もの刃こぼれしない牛刀を見せたのです。

もはや無意識にできるようになっている状態です。それこそが自然体で、雑念や何者にも囚われない状態と言えます。無意識に出来るところまで繰り返し習慣にしてしまうことで、遊の境地に至るのです。

プログラミングの道で職人を目指す集団を経営する立場としても学ぶことの多い話だと受け取りました。無意識でできるまで反復し、訓練を続けることでしか、遊の境地にはたどり着けない。逆に、そこまで辿り着くことができて、私たちの掲げる「遊ぶように働く」ことができるのかもしれません。

そうして辿り着いた、何者にも縛られることのない自由自在にあるがままの状態を「逍遥遊」という言葉にしています。

経営者である限りは、どうしても世の中の動き、他の会社の経営、社会からの評判、はては自分自身のエゴまで、様々なものに追われるような、焦るような気持ちになってしまうことがあります。

だからこそ、「逍遥遊」という言葉に惹かれるのかもしれません。

変化の激しい時代だと言われる中で、世界を変えよう!みたいな勢いの経営も一つの生きる道だと思いますが、中には私たちのような経営もあっても良いのかな、と改めて思うのでした。

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