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最期まで感謝を。


こんにちは、あるいはこんばんは。

今回は久々に野球以外の物事について書きました。


今年の4月4日、父方の祖父が85歳で亡くなりました。
父からは老衰だったと聞かされました。


「人生100年時代」という言葉を最近ではよく聞くようになったからか、85歳というのはいくらか早すぎやしないか。などと思いました。

それに自分が中学生の頃に母方の曽祖父が亡くなったのは100才近かったんじゃないかな。詳しい年齢は覚えてないけど。

だから漠然と身の回りの祖父祖母も事故などではない限り100歳くらいまでは生きるのだろうなと思っていました。


小さい頃から父親は仕事に勤しんでおり、記憶の中ではほとんど母親に育てられた。ということになっています。それも多少は影響して、父方の祖父祖母よりも母方の祖父祖母の方が好きでした。

父方の祖母は誤解を恐れずに言うなら自分の中では「昔ながらの日本人の考え方を持った人」という感覚です。自分はそのような考え方とは対極にいるような人間なので、大学を中退したタイミングや、仕事を辞めて独立リーグに挑戦するタイミングなどで「仕事は…資格は…安定した会社は…就職は…将来は…」などと言われるのが本当に嫌でした。

前までは定期的に祖父祖母の電話がかかってきていました。最初のうちは上記のような言葉を言われても受け流し話をしていましたが、何度も同じようなことを言われるうちに嫌気がさしてしまい、ある時から電話がかかってきても無視して、折り返すこともしませんでした。

さらに自分が20歳の頃に両親は離婚し、実家という実家は無くなっていたため、独立リーグで拠点を転々とする自分はシーズン終了後、どこに帰るかというと、関係の深い母親のもとでシーズンオフを過ごすことがほとんどでした。

これらの他にも色々なことが重なって絡み合って、正月などの集まりにも出来る限り行きたくないと思うようになりました。だから自ら集まる日程を設定したことや確認したことは一度もありませんでした。誘われなければ行かなくていいので。

とはいえ父親から誘いがあればほぼ行っていました。正直嫌だったけど。

大人になってから、いつだかの正月の集まりで自分が何かの予定を済ませてから遅れて参加した時には自分の食事は用意されてなかったか残されていなくて、残り物食べた記憶があります。

その日に今まで繋ぎ止めていた糸がぷつんと情けない音を立てて切れた気がしました。


そんなこんなでなるべく避けていました。だから父親に誘われなければ顔を出すこともなく、コロナ禍も重なって正月もみんなで集まることもなくなり、久しぶりに祖父に会った時には前より痩せていて、足取りもおぼつかないような感じで、箸で食べ物を口に運ぶこともスムーズに行えないようになっていました。

それでも受け答えはしっかりしていて、人はこうやって弱っていくのだなぁと思ったと同時に、人が弱っていくときは緩やかなスロープをくだっていくようなものではなく、崖から落ちるようにガクンと突然下がるものなのだなぁと思いました。

この日は2023年の1月で、祖父、祖母、父、自分の4人でお昼に銀のさらのお寿司を食べました。

父親はこの年の3月から翌年の3月まで1年間イギリスに行くことが決まっていて、
自分は1月末には北九州に行くことが決まっていました。


もちろんこの時にはまた来年も会えるだろうと、たかを括っていました。しかし、祖父と最後に会う日がこの日ということはその時の自分には知る由もありません。父親もそうだったと思います。

弱ってきていると言ってもイギリスから帰ってきてもまた話ができるだろうと思っていたかもしれません。話は聞いてないから分からないけど。多分。


その時にまた野球で挑戦するために北九州に行くことを伝えました。その時に「やれるうちに頑張れ」的なことを言われたと思います。

祖父はずっと自分が選んだ道を否定することはなく、「頑張れ」と応援してくれる人だったので今回も同じように応援してくれました。


北九州をクビになって、次の拠点を神奈川に移すと決めた8月頃には祖父は自宅ではなく施設に入っていました。そして父親はイギリスにいることもあって1人で祖父に会いに行くことはなかなか足が重く、しませんでした。

それは10月に息子が産まれて、里帰りから妻と息子が帰ってきた12月ごろも同じでした。
育児と仕事と野球とでますます忙しくなっていたのでさらに余裕は無くなりました。


祖父が施設に入っていて、父親はイギリスにいるため2024年の正月の集まりはありませんでした
(3月末には父親も日本に帰ってくるしその時に一緒に会いに行けばいいかな)なんて思っていました。

父親からはたまに祖父の現状を伝えるLINEが入っていました。肺炎で酸素マスクが外せない状況でもう先が長くないかもしれないという話も聞きました。

父親は3月25日に帰ってきました。3/30に祖父と面会と言っていましたが、自分は予定がありましたし、そもそも事前に面会日の予約をしなければいけない状態だったのでどちらにしろいけてなかったかも。


もともと入院していた湘南泉病院は移転してゆめが丘総合病院に移ることになったりドタバタして結局面会の日を探っている間に祖父は亡くなりました。


父親がイギリスから帰ってきて、面会をした3月30日から4日後の4月4日でしたので、父親も自分で言っていたけれど父親の帰りを待っていたのかなあなんて思ったり。

父親が面会する2週間ほど前までは受け答えもできていたそうだが、面会した時には一方的に話しかけるような状態だったそう。看護師の方が言うにはこちらの声は届いているけれど、反応が返せない状態だったらしい。


父親は最後にどんな言葉をかけたのかな、思い出話をしたのかな、なんて思ったり、祖父は息子である自分の父親の土産話を聞けて嬉しかっただろうなと思ったり。

自分は息子を見せてあげたかったな


それ以外にもっとこうしていれば、と言うのはあまりないけれど、野球を始めた小学生の頃にバットを買ってもらった記憶が蘇ってきたので、そのお礼を大人になってからもう一度伝えられたらよかったかな。なんて思ったりしました。

それは告別式の時に心の中でありがとうと伝えました。


先祖に感謝をしよう。なんて言葉を聞いても「まぁ確かに今の自分がいるのはこれまで命を繋いでくれたご先祖様がいるからだよなあ」なんて思うことはできてもそれを肌感覚で感じたことはあまりありませんでした。

中学生の時に亡くなった母方の曽祖父、今回亡くなった父方の祖父。どちらが欠けていても自分は産まれてなかったし、父も母も産まれてなかったのだなと中学生の時には感じることのできなかった何かを今回は強く感じました。


祖父の顔を見た時に中学生の時に亡くなった曽祖父の顔を思い出しました。どちらも遺影の顔よりもかなり痩せていてあの時と似ている。と感じました。


祖父は学生時代は野球、怪我をしてからはマラソン、トライアスロンと駆け抜けてきたような人生だったと聞きました。これからは極楽浄土でゆっくりと過ごしてくれたらいいな

亡くなってから感謝を伝えても気持ちは届くと思います。ただ返答をもらえるのは生きている時だけなので、感謝の気持ちは早めに伝えておいたほうがいいなと学びました。



納骨の日、お墓に行くと藤原家と彫られている下に
「お参りありがとう」と掘られてありました。

自分が死んだあとの周りの人のことを考えてこの一言をお墓に添えられる祖父の優しさと人間としての大きさがここに現れているなと思いました。


自分にここまで配慮はできるだろうか、なんて色々と考えてしまったけれど、できるかどうかは一旦置いておいて、最期の最期になっても感謝を形にできる祖父を見習い、自分も感謝を大切にできる人間になろうと思います。


じいじ今までありがとう。お疲れ様でした。



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