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僕は1番下手だったから努力を続けた/高校3年生編


高校2年のシーズンが11月末で終わり、最後のオフシーズンに入った。

高校の野球部としてトレーニングは外部のトレーナーにお願いしていた。だからウェイトトレーニングの基礎も教わることができた。

定期的に測定会があったためそれがモチベーションになっていたこともあって、この冬はウェイトトレーニングを中心に頑張っていた。


自分たちの代はメニューを自分たちで決めてそれを先生に提出していた。授業が終わってから、だいたいノックとバッティングをやって自主練習1時間とトレーニング1時間という流れだったと思う。

当時からただティーをやっていても勝手に上手くなるわけがないと思っていたため、自主練ではひたすらウエイトをした。

ノックなどができればよかったが、当時はドリルも知らなかったし、そもそも冬はすぐ暗くなるので、諦めてひたすらトレーニングした。

ウエイトのメニューやランニングのメニューは決められていたので、それは各々がしっかりとやっていた。自主練習の時間にはそれに付け加えて色々やっていた。


そして冬トレも終わりを迎えた2月の下旬、測定会があった。前回の測定から3ヶ月間、特にトレーニングに力を入れた甲斐があって、ほぼ全ての数値が飛躍的に上がった。

特に、
ベンチプレスは80kg→105kgに
50m走は1歩目スタートで6.22s→6.02sに
体重は72.4kg→77.7kgまで増えた。

冬トレの段階でもロングティーがかなり飛ぶようになりパワーアップを実感していた。


別人のようにパワーアップして迎えた春は最高のスタートを切ることができた。試合でも結果を出すことができたから試合に出る機会も増えた。

春の大会までの打率は.400を超えていたしホームランも打っていた。


あっという間に地区予選、そして本戦と進んでいき第3シードを獲得し、第2シードを掛けた次の相手は東海大相模だった。

そして小学校から始めた野球で、初めて公式戦に出ることになったのはこの試合になる。


点差は忘れたが、コールド負け濃厚な試合展開だった試合は、豪雨によって雨天中止となり後日再試合となった。


後日行われたその試合は、アンダースローの吉村が先輩をし、ロースコアの展開となり、8回3失点と素晴らしすぎるピッチングで0-3のまま最終回を迎える。

最終回、一死一、二塁。ネクストバッターズサークルに入って打席のキャプテンを見ていた。

公式戦に出るのは初めて。お客さんが見ている球場で打席に立つのも初めて。もう何もかも初めてで未知で怖かった。

ドキドキワクワクというのは本当に少しでほとんどオドオドしていた。打席は回ってきて欲しいけど、「このままゲッツーになって打席が回ってこないで欲しい…」とも思った。

そわそわと考えていると、キャプテンは強い打球でセカンドを強襲したヒットを打った。

そして、一死満塁で自分の公式戦初打席が回ってきた。

頭は真っ白。覚えているのは膝の震え。
ピッチャーのクイックに合わせてタイミングをとって…

あれ。クイックじゃない!?

当たり前だが、満塁なのでクイックでは投げない。しかしそんなことを考える余裕などその時の自分にはなく、ピッチャーが足を上げたタイミングで自分も足を上げてしまった。

でも自分は初球を振ることを決めていたためもう一度タイミングを取り直して振りに行った。

すると何故かバットに当たり驚き、それがセンター前ヒットになり驚き、その打球をセンターが後逸し驚き、驚きすぎて一塁ベースを危うく踏み損ねそうになり、ベースを踏んだ時には硬くて驚き、浮き足だったとはまさにこのこと。足が絡まりニ塁ベースは足が合わず、二塁を回ったところで転倒。

余裕で三塁まで行けたが、転倒した。
しかし、何はともあれ走者一掃となり同点となった。

@サーティーフォー相模原球場

後続がヒットを打ったから自分がコケていなければもしかしたら勝ち越していたかもしれない。

試合は9回裏に自分のセンター前ヒットを後逸した選手がサヨナラヒットを打ち3-4で負けた。


春の大会が終わってからはAチームとBチームを行き来する生活が始まった。最初は5打数1安打でBチームに落とされ、翌日Bチームの監督からは「お前はなんでBチームに来たんだ!?」と言われ、分かりません。と一言。

その試合でホームランを含む3安打をし、翌週からAチームに戻ることになった。しかし、出場機会は代打のみで、その打席で結果を残せなかった自分は、次の試合からまたB戦に戻ることになった。

そしてそこでまたホームランを打ち、Aに上がり、結果が出ず、Bに行き…というのを繰り返した。


6月にあった文化祭の招待試合では3三振をし、試合途中で帰らされた。この時にはもう終わったと思った。メンバーを外れたと本気で思った。

翌日も招待試合があり、そこで奇跡的に代打でヒットを打ち首の皮一枚繋がった。


その後も色々ありながら、背番号19番で夏の大会のメンバーに選ばれることができた。

夏の大会1回戦。代打の切り札として、2-4のビハインドで迎えた6回表に同点タイムリーツーベースを放ち、その後生還し勝ち越しのホームを踏んだ。

@俣野公園・横浜薬大スタジアム


その後試合に出ることはなくベスト16をかけた試合で延長戦の末、鎌倉学園に負けて最後の夏は終わった。


引退してからも大学野球を続けることは決めていたため、練習を続けていた。


そして、早い段階で横浜商科大学に入ることが決まり、2月から野球部の活動に合流することになった。


高校ではレギュラーになれなかったけれど、大学野球では必ず一花咲かせてレギュラーになれるように頑張ろう!!そう決意して2月を迎えた。


次回へ続く。

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