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週刊誌、新聞そして放送、 各取材記者を経験した生涯一記者 です。  南北花境界線の栃木で暮らし、 栃っ子でないけど栃木のイイトコ、 悪いトコ、トチッターしています。

最近の記事

喧嘩相手

 我友田中正造君逝ケリ、 大隈重信が、激論、ケンカ? 相手の逝去を悼み、弔辞を 寄せています。  佐野市郷土博物館から活字に 起こした弔辞の写しを頂きました。  大隈重信の直筆は、ほとんどなく、 口述筆記に近い形の弔辞、簡にして 要を得ています。  弔辞には「盡瘁」なる正造翁の 生涯を髣髴とする言葉も鏤められ、 近くオスソワケします。喝

    • 田中正造 マイ早慶戦の影に~

       1901年、福沢諭吉、没、66歳。 故人の遺志により、花や香典一切 辞退。厳粛に簡素に告別式。  大隈重信の使者、生花花束、斎場に。 福沢家辞退。  使者「大隈が、福沢の訃報に接し、 自ら育てた花を自ら切って、涙ながらに こしらえた花束です」  福沢家、黙って受け取る。 これが後世、福沢諭吉に別れを 告げた大隈重信唯一の花です。  早慶両校、相競い、相和し、 福沢、大隈二人の友情に支えられ 励まされ、田中正造もって瞑すべし。喝

      • 私の早慶戦

         伝統の一戦~の名で呼ばれる 各スポーツ早慶戦、福、大、田の 存命中は、まだ始まっていません。  田中正造~マイ早慶戦のネライは、 手紙魔正造翁が知己を得た慶応の 福沢諭吉、早稲田の大隈重信に 直情をぶっつける書簡を送っています。  文は人なり、また、文字も人柄を 表します。  慶早、創設者の福沢諭吉、大隈重信が 田中正造にすべてにおいて、いかに 対応したか、マイ早慶戦、それが 「私の早慶戦」です。喝

        • 三つ巴

           福、大、田の断片的な情報を 積み重ねていきます。  福沢諭吉は、大胆さと慎重さを 兼ねそろえたバランスのいい性格の 人でした。  大隈重信は、カネに汚い、オンナに モテない、弁舌巧み、負けず嫌い、 不撓不屈の精神の持ち主でした。  田中正造、大隈と田中を結び 付けた島田三郎(政治家、新聞社社長)の 紹介状。  「性少しく頑、短慮の失あり候へども、 直情勉強は多く其の比なき者に御座候 へば~」喝

          田中正造~マイ早慶戦~

           田中正造がその生涯で、 早慶両校の創設者から 知己を得、影響を受けました。  それが田中正造~マイ早慶戦の テーマです。  福、大、田の出身地は、幼名は~ 人物像を読み込んでいます。  なぜ、一万円札の肖像画に、 三人の内二人が土地の転売で 大儲け!三人の御縁?を探す旅。喝

          田中正造~マイ早慶戦~

          愛称トリオ

           福沢諭吉(1835~1901)  大隈重信(1838~1922)  田中正造(1841~1913)  福沢が「先生」大隈が「老侯」 そして田中が「翁」の愛称で 人々に親しまれました。  愛称トリオに共通するのは、 その差は有っても、子女の教育に 熱心だった。  福沢先生「慶応義塾大学」  大隈老侯「早稲田大学」  正造(翁)「夜学を開く」喝

          田中正造 マイ早慶戦開幕

           「田中正造 マイ早慶戦」の タイトル掲げた以上、慶早の 創設者福沢諭吉、大隈重信、 それに田中正造について、過去 どの程度知っているか、マイブログ 検索しました。   2012年10/16  講師は、元宮内庁書陵首席研究官、 真の文明は、云々は、田中正造の専売特許 じゃない!夏目漱石や福沢諭吉も亦同じと 強調していました。   2015年4/9  帝国憲法発布直後、正造翁の 「帝国憲法が良いとか悪いとか、 オラ簡単に言えない」大隈重信に 宛てた手紙が遺っています。  

          田中正造 マイ早慶戦開幕

          田中正造 マイ早慶戦

           田中正造、陸奥上役殺人事件、 疑いハレ、無罪放免、郷里下野へ 帰る道中、西国立志編と共に 福沢諭吉の「英国議事院談」読む。  帰郷後、酒屋の番頭に「福沢先生の 帳合法」を使いきれず、番頭失格!  それどころか、正造の思想と行動には 福沢の著作主張と類似性が~ (引用)福沢諭吉と足尾鉱毒事件    三浦顕一郎  田中正造に影響と交友のあった 慶応、早稲田の創設者に敬意を表し、 三者三様の因縁を探します。喝

          田中正造 マイ早慶戦

          うかと見れば

           この日は、蔵の街図書館、 郷土資料室に三時間近く、 コモリマシタ。  いつものように、田中正造関係の 本の背表紙を眺めたり、手に取ったり、 瞑想、実はウツラウツラ、椅子から コロゲソウニなったり~  帰り際、何気なく手にした本、ペラペラ めくると「毒野もうかと見れば普通の原野」 正造の言葉が~  エッ?! 喝  

          うかと見れば

          温故知新

          2012年5・15里便り再掲。   田中正造の銅像が、佐野市郷土博物館 前庭に建っています。  例の一億円、ふるさと創生事業で、 創造?創像?した郷土の偉人、正造翁です。 ホント?は、駅前に設置されるハズでした。  正造研究のメッカ、正造大学のHPに 正造のチョンマゲ姿は、史実と異なる、 直せ、文句アリです。  爾後(じご)、羹(あつもの)に 懲りた役場職員は、正造膾(なます)を フイテイマス。  田中正造のちょんまげ姿は、 正造研究の象徴です。喝

          無用の長物

           刀は武士の魂か、    1857年、田中正造、17歳 名主になり、苗字帯刀許される。  1869年,正造、29歳、 佩刀禁止の議論起きる。  1870年、正造、30歳、 「陸奥」出立前、女性から 父が預かっていた貴方の刀、 正造に返される。    1871年、正造、31歳、 上役殺しで逮捕、証拠は 返された刀。  1876年、正造、36歳、 廃刀令。無罪放免後、働いた 酒屋の番頭を辞め、夜学を 開く。  予は下野の百姓なり。喝

          人間 田中正造~現地妻~

           2012年2・25、里便り再掲。  田中正造が、東日本江刺県(当時)に 下級官吏の職を得て、単身赴任していた時、 若い現地妻と起居を共にしていました。  正造は、分かり難いその土地の 言葉の通訳と家事を兼ねた一挙両得の 現地妻を同僚の誰もがやっていると 押し付けられた云々  言い訳めいた記述が彼の全集に見え隠れ しています。  ところが、後でヒマを出された現地妻、 これを恨んで、正造が上役殺しの冤罪事件に 巻き込まれた時、「事件のあった晩、正造が 隣で寝ていたかどう

          人間 田中正造~現地妻~

          牛歩千里

           里便りを始めて(2012年)直ぐに 人間 田中正造~冤罪~を書いています。    田中 正造が、上役殺しの濡れ衣を 着せられ、捕まったのが、彼、31歳、 明治二年1871年でした。  事件は、被害者の上役と、シバシバ 彼が、ケンカをしていた。動機は恨み、 犯行は計画的とされました。  こころある人が、事件の後、静岡に 引き込んだ被害者の家族から、三年ぶりに、 犯行現場で見た犯人は「正造ではない!」 証言を引き出し、彼の無実を証明してくれました。  この事件が仕組まれた

          濡れ衣

           さらに田中正造年譜を 辿ると、 明治四年(1871)3・15 太政官達「関以東府藩県へ  江刺県権大属木村新八郎儀、 花輪分局へ出張中、夜浪士体ノ 者一人忍入、同人を殺害ニ及ビ~  ○弾正台立ち合いで第一回審問、  (田中正造)拷問を受ける。  ○免職され、花輪分局獄より   江刺県獄へ移送される。  移送中、正造が詠んだ歌 うしろ手を負わせられつつ七時雨      しぐれの涙掩ふそでもなし            

          田中正造と刀

           田中正造年譜によりますと 安政三年(1856)16歳、 ○剣術を学ぶも病のため中止。 安政四年17歳、 ○父富蔵の割元昇進に伴い、その 後任として小中村六角家知行所の 名主に選ばれる。苗字帯刀許可。  年譜は飛んで、明治4年(1871)31歳、 ○江刺県権大属木村新八郎暗殺(2・3)の 犯人として逮捕される。  凶器は、田中正造、腰の脇差。 オッカナイデスねえ、コワイデスねえ。喝

          田中正造と刀

          なぜ君は~監獄ライフ~

           田中正造、二回目の監獄ライフは、 1871年(明治4)からおよそ三年間 当時、31歳。  救いは、新時代の司法機関は、 ゆっくりとではあるにせよ、 少なくとも最終的には有効に機能する ようになったのだ。(K・ストロング)  正造は、漢籍に出てくる格言で 監獄ライフを支え、西洋の政治、 経済それに思想の翻訳本を大きな 声で読み続けました。  吃音矯正、理論武装、後世の評価は、 災い転じて福となす的、軽い軽い。 それにしても正造翁の監獄ライフは 続きます。喝

          なぜ君は~監獄ライフ~