相互扶助の続き
先週書いたnoteでは「相互扶助は動物の本能である。そして現在相互扶助は見えにくくなっている」という内容を紹介しました。これは今読んでいる「相互扶助の精神と実践」という本で書かれている内容で、この本はピョートル・クロポトキンの書いた「相互扶助論」を解説する本となっています。
今回は後半を読んでその内容をまとめていきたいと思います。(修論のためのnoteになりつつある😅)
個人が重なり合う「自己の卵モデル」
相互扶助を促すには、「個人か全体か」という整理ではなく、「個人と全体の関係性」を見る必要があります。近年は個人を活かす前提である「個人主義」が重視されています。これまでの「全体主義」の悲惨な歴史からすると、「個人の自由が保証され、個人が頑張り、その個人が豊かになる」のは自然な流れかもしれません。しかしこの本では「個人」と「全体」を切り分けて考えるのではなく、相補関係であるとして「自己の卵モデル」というのを紹介しています。
「自己の卵モデル」は生命関係学の清水博先生の提唱するモデルで、自己を卵の黄身と白身に喩えています。黄身が「自己の中心」であり、白身は「他者と相互に繋がり得るもの」です。例えばフライパンなどに卵をいくつか割り入れると(黄身は割らないように!🍳)、黄身はそれぞれ独立して「われ」として存在しますが、白身は互いに接触して「われわれ」として一体化します。このとき「自己」は、黄身だけではなく一体化した白身の全体性の中に存在することになります。もちろん卵の白身は相互扶助はしませんが、「自己」というものは社会の中でこそ存在することができるという意味でわかりやすいモデルです。
このモデルを見た時に、kintone SIGNPOSTでも参考にしたパターン・ランゲージの話を思い出しました。個人の役割を「分割」するのではなく、「オーバーラップ」させて相互の理解を高める、というイメージです。
相互扶助とは義務も強制もないモラルである
相互扶助は義務でも強制でもない、モラルである。ここは何度読んでも難しかったです。。。今も難しい。。。
まず、一般的に義務や強制というと「汝〜〜したいなら、◯◯するべし」という条件付きのものであり、これは哲学者のカントの言う「仮言的命令」と言われます。具体的は「人に好かれたいなら、優しくしなさい」「天国に行きたいなら、善行をしなさい」と言う類のものです。
逆に「義務でも強制でもない」というのは「社会通念上の道徳や宗教上の教えによるものではない」であり、「汝為すべし」と言えます。これは「定言的命令」となります。しかしクロポトキンの相互扶助論では、相互扶助はこういったもので引き起こされるものではない、と言っています。(え?そうなの?ここで混乱。。)
クロポトキンは「生の余剰によって『義務』が生まれ、それを他に与えること、そしてそれ自体が力の意志である」と言っています。このような考え方は同時代のフランスの思想家ジャン=マリー・ギュイヨーから影響を受けています。ギュイヨーは「義務も制裁もなき道徳」と言う著作の中で「 最も豊かなる生命は、自己を浪費し、ある程度まで自己を犠牲にし、他の者のために自己を分かち合える傾向が大である。個体として自分だけで充足することでとどまることができないような生命拡大の原理が働いているのだ。」と言っています。(なるほど確かにコミュニティで活躍している人って、めっちゃ活動的だわ。。。)
ただ、この本では、相互扶助は決して強者だけがするものではなく、弱者にもその原理は働くと言っています。つまりここで言う「力の意思」は、他者評価による「力」ではなく、自らが「生命拡大したい」「生きていこう」と思う意思のことではないかと思います。
ちなみに、先ほど出てきた「力の意志」はニーチェのそれと同じと思われます。(ニーチェは「相互扶助」という点では反対のことを言っていますが、道徳や宗教を否定するという点では同じことを言っており興味深いです。)
まとめ
そんな相互扶助の本を読んでいるわけですが、両手を上げて納得というわけではなく、「でもそうは言っても、相互扶助を促すのは難しいのでは?」と言う思いもあり、その必要性やそれを促す仕組みを探求していきたいと思います。