オリンピックとゲーム音楽に関して。或いは文化やSNSでまき散らされる感情について思うこと

たまにゲーム記者(半分趣味)としてものを書くが、東京オリンピックの開会式でゲーム音楽が使用された件について尋ねられることが数回あったので、カンペ兼メモを用意することにした。

まず筆者は、オリンピックの開会式でゲーム音楽が使われたことについては、一人のゲームファンとして嬉しいと感じている。しかし一方で、ゲーム音楽の扱われ方や、開会式後のSNS等での意見について、思うところもあった。もし興味のある方がいれば、以下の文章を参考程度に読んでいただければ幸いである。なお、太字は重要なところだけではなく、予防線としての意味合いもあるので注意されたし。

■ゲームは「発見され」、「認められた」

冒頭で述べたように、筆者はゲーム音楽が使用されたことについて「嬉しく」思っている。ただ、それはSNSで言われているような「ゲーム音楽が認められたことが嬉しい」というようなものではなく、単純に「好きな音楽がかかっていればテンションが上がる」というアレで、ゲーム音楽以外の、例えば浅井健一やアジカン、最近ハマっている日本語ラップなどがかかっても、おそらく嬉しかったはずだ。

ともあれ、既に多くのクリエイターやゲームライターの方々が語っている通り、オリンピックの権威をもって「ゲームが認められた」というのは間違いではないだろうし、筆者自身、それを喜ぶことに違和感は感じない。特に、90年生まれの筆者(※1)が生まれるより前からゲームに関わってきた先人達にとっては、ゲームが公の場、しかも「オリンピック」という国際的な大イベントで使用されることに大きな意味があるのだろう。なにせ、彼らは今のゲーマーに向けられていたものよりも強い偏見の目を向けられ、それに立ち向かいながら現代までゲーム文化・産業を支えてきたのだから。

また、ゲームや漫画は開会式を通して「発見された」のだと筆者は思う。これは予想の域を出ないが、開会式にあたって、いざ国際的に発信できる日本の文化は何かを考えた時に、ゲームや漫画といった「サブカル」扱いされ、脇に追いやられたものが「世界で受け入れられている日本のポップカルチャー」として発見されたということは十分に考えられる。

もちろん、開会式に関わったクリエイター達は、既にゲームに文化としての力があることを知っていただろう。「クールジャパン」の中にゲームや漫画も含まれているし、リオ五輪の閉会式で「安倍マリオ」をやったのだから、一部の政治家も、日本のゲーム文化が国際的に価値があることを知っていただろう(と信じたい)が、それに懐疑的だった関係者もいたと思う。

また、SNSばかり見ていると忘れがちだが、テレビで開会式を観て、ゲームや漫画に文化としての価値があることを知った人は少なくないだろう。実際、筆者の周囲だけ見ても、自分の好きなものがオリンピックに使用されたことに驚いているゲーマーもいたし、親世代の人たちは「クールジャパンって本当だったんだね」みたいなことを言っていた。

考えてみると、こうしたゲームや漫画の持つ文化の力は、開会式の計画段階と、テレビ放送の中で二度発見され、そして(賛否はあるにせよ)オリンピックの権威でもって、ゲーム音楽は「認められた」のだろう。

もちろん、「別に認められなくてもいい」と思っているゲーマーは少なくないだろうし、後述するように筆者も手放しで喜べているわけではないのは事実だ。

しかし、それでも幸か不幸か今回、こうしてある種の権威付けがなされたことによって、非ゲーマーのゲームを見る目は多少なりとも変わり、オリンピック後のゲームを取り巻く政治・経済的な状況にも動きがあるかもしれない。だからこそ、今後について考えることは重要ではないだろうか。

■ゲームの政治利用――文化は守らなければならない

開会式でゲーム音楽が使用されたことについて、批判的な意見の中には「ゲーム音楽が政治利用された」というものがある。

誤解を恐れずに言えば、今回ゲーム音楽が使用されたことについては「政治利用」と言えてしまうだろう。「オリンピックはスポーツの祭典! 」といくら言ったところで、これだけ多くの国が参加し、多額のマネーが動くイベントと政治性を切り離すことはなかなか難しい(深く掘ると文字数が足りないので、詳しくは専門家に任せます)。

だからこそ、選ばれた楽曲がポリティカルな面で正しいのか、炎上しないか不安視する声や、選曲から利権を感じるという意見は、至極真っ当なものだと思う。

また、文化が「発見」されたからこそ、ゲーム文化を乱用させないこと・守ることがゲームメディアやゲームファンに求められることだろう。「国際基準」とか「世論に配慮した」とか「よく分からないが害がある」などといった実態がないに等しい理由でもって、妙な規制や間違った文化の発信をさせないように注意深くあることが、オリンピック以後にはより大切になってくるだろう。

ただ、今回の件に関する多くの批判や懸念は(少なくとも筆者には)妥当なものに思えるが、気になるのは陰謀論的な批判だ。例えば「今回ゲーム音楽を使用したのは開会式前のゴタゴタを鎮火するためだ」といった意見は、妥当ではないように思える。

先に書いた通り、日本のゲームは既に世界で人気を博しているコンテンツであり、「開会式で使えるような国際的に認められている文化」を考えるにあたって、ゲーム音楽はかなり穏当であり、鎮火のためにわざわざゲーム音楽を持ってきたというのは無理があると考えられる。(最後に少し書くが、「ゲーム音楽しかなかった」というのは正しくないし、ゲーム音楽はある意味で「不幸にも」選ばれてしまったと思う)。

こうした政治に対する自衛意識は大切ではあるが、過度に行き過ぎると陰謀論に陥ってしまう。ウイルスやそれに対する政府の対策に危機感を感じる理性は必要だが、過度に不安視して「ワクチンを打つと5Gに接続される」的な陰謀論に陥ると手のつけようがなくなってしまうのと同じように。

■自分の好きなものがメジャーになる恐怖

わざわざここで書く必要はないかもしれないが、せっかくなので「自分の好きなものがメジャーになっちゃう問題」にも軽く触れておこう。おそらく、今回の件について批判している人の中には「ゲーム音楽がメジャーになってしまう」ことで生じる政治的な危機感とセットで、「マイナーな趣味がメジャーになるかも……」と自分のアイデンティティが揺れ動くような不安に襲われている若い人(10代くらい?)もいるかもしれない。(ちなみに、そんな若者へのアドバイス(?)については完全に怪文章&余談になってしまったので、詳しくは下記(※2)を参照してほしい)。

こうした問題について、筆者は「メジャー/マイナーを問わず、いいものはいい」という価値判断と、「メジャーになったことで汚されそうなら守る」という意識が大切だと考えている。しかし一方で、こうしたカート・コバーン的な不安は、政治性と分けて考えることが大切だとも思う。「好き」という感情は、それだけで「公に正しいことの証明」にはならないからだ

■SNSが直情的であることへの不安

何らかの感情を抱くことに「正しい/間違っている」という価値判断は持ち込むべきではないし、だからこそ何かに対して「好き/嫌い」を語ること自体は否定しない。むしろ、あらゆることの好き嫌いが語れる自由が保障されていることは素晴らしいことだ(※3)。

しかし、この「好き嫌いの感情」が政治や経済、社会問題等に関する発信と直接繋がってしまうと、それはいとも簡単に暴論へと変容する。その意味でネット、特にスマホで簡単に発言できてしまうSNSは、そうした直情的な発信をしやすい媒体である。

発信の際、「何かを好き(嫌い)だから、脊椎反射的にネットで擁護(批判)する」のではなく、投稿する手を一旦止めて、その事象の背景にある様々なことを考えてから発信をしなければ、感情的な批判、こじつけ、陰謀論的な意見、建設的ではない議論や炎上が積み上げられてしまう。

そして、炎上や不毛な議論の中で、本当に考えるべきことは置き去りにされ、時間と共に忘れ去られてしまいがちだ(その理由の一つとして挙げられるのが、感情的な議論は感情に任せればいいのでコストが低く、建設的な議論は考察や相手へのリスペクト等が必要なのでコストが高い、というものだ)。

筆者はこの問題を、オリンピック開会前に起こった一連の騒動や、開会式でゲーム音楽が使用されたことが話題になっている中で改めて痛感させられた。読者の中にも、オリンピックによって様々な問題を再認識させられたという方は少なくないだろう。

実際、開会式前には関係者に対する過度な批判があった(批判されても仕方がない部分もあるが、批判の中には行き過ぎたものも間違いなくあった)。また、ゲーム音楽が使用されたことに対しても陰謀論は囁かれており、今もなお感情的な議論が少なからず見られるし、建設的な言及や問題提起だと思われるものの中には、感情的な読者によって炎上しているものもある(中には感情的な問題提起もあるが……)。

その中で、ゲーム文化を今後どう守るかについては、残念ながら一部でしか議論されていないし、時間が経てば、多くの人が怒りや不安を忘れ、開会式にゲーム音楽が使用されたことを忘れてしまうだろう。

■話がでかくなってきたのでまとめ

こんな風に、現在のSNSのタイムラインは感情によって動いており、それが世の中にも影響を及ぼしている。だが、ありとあらゆる物事がどんどん感情によって(もしくは感情に配慮することによって)動かされている今だからこそ、何かを発信する際には一度立ち止まって、様々なことを考えてほしいと筆者は思う。

話をでかくしがちな悪い癖がでてきたので、最後に。

既にSNSや「シラス」での配信等でも言及しているが、筆者は何かを評価・批評するにあたって、自分の「好き」という感情を押し殺した上で悩み、考察し、その上で「好き」を発信する姿勢が大切だと思っている。

「『好き』を発信できる人がWebでは強い!」的な言説が一部で支持されているようだが、こうした姿勢を忘れて「好き」だけで何かを肯定しようとすると、中身がスカスカのコンテンツが生まれてしまう。そして、そうしたコンテンツは承認欲求を満たしたい人相手の信者ビジネスしかならない(そしてこれは、「嫌い」に関しても同様のことが言える)。

自戒を込めてあえて言おう。
「好き」を発信するのは、本来苦しい行為であるはずなのだ。

【註釈】

※1
90年生まれの筆者含め、いわゆる「ミレニアル世代」というのは、ゲームが世に波及していく流れと共に成長した世代ではないだろうか。

例えば、筆者は小学校低学年の時に「ポケットモンスター赤・緑」がブームになり、初代プレイステーションが発売。10歳の頃にはPS2がDVDプレイヤーとして家庭の中に自然に溶け込んでおり、高校生になるとニンテンドーDSが非ゲーマー層にもリーチ。大学時代にはスマートフォンが普及しつつあり、より世界とゲームが身近になっていった。とはいえ、我が家は小学生の時にはゲーム禁止だったし、香川県の事例を見ても明らかなように、ゲームに対する偏見の目は現代でも根強く残っている。また、浸透したからこそ、ゲームと社会の間に生じる問題も少なからずあるだろう(例:若年層がソシャゲのガチャで金銭を溶かしてしまう問題等)。

完全に余談だが、ゲームの歴史についてはこちらの本がオススメ。

著者の中川大地氏は批評誌『PLANETS』の副編集長ということもあり、批評・評論的な文章が読み辛いと感じる人も一定数いるだろうが、ホイジンガやカイヨワなどを用いてゲームについて語っているのは本書の強みではないだろうか。

※2
その気持ち、超分かるけど、受け入れるしかない。俺はロックでそれをやった。周りのヤツがアジカンとか聞くようになってさ、Oasisとかクラスで俺だけしか聞いてなかったんだぜ……。でも受け入れた……受け入れるしかなかった。大丈夫……メジャーだろうがマイナーだろうが、「いいものはいい」。それを忘れて「最近のロックはダメ」とか言って、70年代の曲を掘るのも決して悪くない経験だけど、ずっと続けてはいられない。俺もZepとか聞いてみたしさ、フェイバリットはPixiesになったよ。まぁ、とにかく「いいものはいい」んだ。大事なのは「有名/無名」ではなく、メジャーになった時に自分の「好き」を汚されないように頑張ることなんだ……。これが超お節介なオッサンからのアドバイスです。

※3
人類の歴史において、ここまで自由に物事の好き嫌いを語れる時代はなかった。政治家の悪口を書いても逮捕されないし、持っている本が検閲されることはない。そういう意味で、日本は自由でいい国だと思う。

■本題への架け橋「そもそも文化とは?」

ゲーム音楽に関する筆者の意見はここまでである。以下では、開会式で感じたその他のことを箇条書き的に記しておく。これは本当に思考メモなので、読む必要はない。

そもそも、あの開会式から「日本」という国の像は、少なくとも筆者には全く見えてこなかった。ゲーム音楽の使用やドローンによる演出は素晴らしかったが、そこにあったのは「日本人の考える発信したい日本」ではなく、「海外に受け入れられ消費される日本」だったのではないだろうか。

まるでアリバイ工作のように日本的なものを散りばめただけの開会式、その中で「ゲーム音楽が消費された」と受け取る人が一定数いたことには頷ける。実際、あの場所でゲーム音楽は「日本が誇る文化」としてではなく、「海外受けのいい日本産の音楽」として使用されていたと言っても、決して過言ではないだろう。

5年前のリオ五輪の閉会式で登場した「安倍マリオ」についても賛否両論あったが、アレについて筆者は、消費社会の中で、消費されるにしても「日本独自のものを」発信しようというあがきがあったのではないかと見ている。なにせ、自国の総理のコスプレを世界に発信したのである。言葉を選ばずに言えば「クレイジージャパン」的なものが、そこに表現されていたように思う。

しかし、今回の開会式は、「体よく、穏当に、炎上せずに消費されよう」という姿勢が感じられてしまった。アイヌや琉球文化を出さずに、何が「多様性」だ。

二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
— 三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」

もう少し深掘りしたことを7月末か8月頭に「シラス」配信で話すつもりです。気になる方は是非。番組単体でも購入ができます。



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