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酒神に捧ぐ我が酒の記①

 大人になって「これはよかったな」と思うことはたくさんある。

たとえばお金。

小さい頃から無神経な母に、如何に我が家にお金がないかの話をされて育ったから、自立して自分の手の届く範囲で金銭の管理ができるのは気が楽だ。

親の許にいた時のどうにもコントロールしようのなかったもどかしさを、すべて自分の責任で処理することができるのは、成長の自負にもなる。

たとえば移動。

いくら私がインドアな人間だとしても、北海道でも沖縄でも、ラスベガスでも地球の真裏でも、いつでも気の向くままに向かうことができる自由は何物にも替えがたい。

この足はどこまでも伸ばせて、もっともっと望む限り何でもこの目で見てやることができるのだと思うと、不老不死を願いたいくなってくるほどだ。

しかし、私が最も大人という状態に対して強く考えた時、何を差し置いても酒を挙げないわけにはいかないと感じる。


 酒を初めて口にしたのは高校2年の頃だった。

…と、わざわざ法に反した行為を書くのには、理由があったことを添えて置く。

当時アルバイトをしていたダイニングは居酒屋を兼ねており、周囲も大学生ばかりだった。

数少ない高校生の私は「坊」呼びされてだいぶかわいがってもらえたのだが、そうした環境で忘年会が開かれると多少オモチャにされてしまうのはお決まりである。

「ジュースだよ」という軽やかな嘘に欺かれ、17年の生涯で初めて口にした酒が、カシスオレンジだった。

その性質からして珍しい味という感想こそ抱くものの、迷彩されたアルコールの味やにおいに気付くことはできず、私はものの数分もしない内にグラス一杯飲み干してしまった。

先輩が面白がって初めての酒の感想を求めてきたのは、その様子を確かめてからのことだ。

当初断っていただけに笑える事態ではなかった。

が、やはり関係性を考えるとそう強く言うこともできない。

また、グラスを受け取った時点で、笑みの零れる先輩の顔を確認して、口に含んだ時点で、「ひょっとしたら」という疑念がなかったかと言われればそうは言えず、飲み進めてしまったのは自分の選択だった。

家に帰ってから後悔をするのだろうと、先輩に冗談交じりに怒る脳裏で考えていた。

一方で私の胸中にもう一つの感想、それも安堵感に近いものがあったことを認める必要がある。

それは自分が「酒を飲めた」という、大人に近づく中でぼんやりと抱いていた不安の解消だった。

自分がある程度アルコールへの耐性を持つことを知れたのは、学校で行ったパッチテストなんかよりもよほど直接的で、「酒を飲む権利」を持つことを確認できた気分だった。(もちろん、未成年に権利はない)

後に残っていた悔いは、初めてのアルコール、言ってみればアルコールバージンを”カシスオレンジ”という何とも格好つかないもので捨ててしまったということだった。

 そんな私の酒との始まりだったが、それから二十歳を迎えるまでは口にすることなく遠ざけた。

ただ、これには私が二年の浪人を経たことも影響していたと思う。

勉強で酒の誘惑どころか、酒という言葉自体脳内に侵入してくることはなかったし、また、一緒に楽しむという人も当然いなかった。

私が二度目の飲酒をするのは、無事進学先が決まった後のサークルの新歓コンパである。

新歓コンパは入学とすぐにあちこちで行われるが、基本的には食事会だ。

4月の末に実施される飲み放題の付くその会に参加するのは、つまりその部・サークルへの入部・入会が決定することを意味する特別なものである。

私が入ったのは演劇研究会という名前からしてサブカル臭を抑えきれないところだった。

だが、そのイメージとは裏腹に快活でユニークな人が多く、この顔合わせ的な意味のある飲み会も大盛況だった。(演劇に携わる人間が変わり者ばかりだと知ったのはその後のことである)

そこで初めて”酔う”という経験をした。

頭の中でジーンという音が鳴り、脳みそがあったまって、世界がほのかに自分を中心として廻る。

それなのに不快感というものがまったくなく、口元が綻んでくる心地よさが内にある。

今日まともに話をしたばかりの同級生や先輩と大声で騒ぎ、肩を組む様は、まさに陶酔というにふさわしかった。

 私が酒の魅力を知るには、この一晩で十分だった。

それから私はスーパーに並ぶ缶の酒を端から端まですべて試し、ついには瓶の酒を常備するようになる。

ウイスキーを手に取ったのはどういった経緯か今は思い出せないが、ある時からは愛飲するようになっている。

今ではビールとバーボンウイスキー、たまにジンや柑橘のチューハイ、そして甘いもの好きとしてアマレットとカルーアミルクを、というようにキザったらしい酒のスタイルを確立してきた。

そんな10年を迎えた飲酒経験で、私がしてきた経験は、成功も失敗も数知れない。

その内のいくつか、どうにも記憶から消せないものを、贖罪と感謝から酒神への捧げ物として記そうと思う。

…前書きが長くなってしまったので次の機会に。

ひとつ言い訳をするならば、水を浴びるように飲む酒もいいが、飴玉を転がすように堪能する酒もまたいいのだ。

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